講談社電子文庫    魔鏡の姫神 霊感探偵倶楽部1 [#地から2字上げ]新田 一実   目 次   登場人物紹介  序 章  第一章 破 鏡  第二章 |妖《よう》|魔《ま》目覚める  第三章 予 兆  第四章 |闇《やみ》への|扉《とびら》  第五章 |破《は》|邪《じゃ》の法  第六章 眠れる姫神  終 章   あとがき     登場人物紹介 ●|大道寺竜憲《だいどうじりょうけん》 [#ここから1字下げ]  霊能者を父に持ち、自らも父“|破《は》|魔《ま》”の力を有する。過去に|亡《ほろ》ぼされたすべての生命の魂が、生きる者に何かしらの影響を及ぼすのだと考えている。その正体を探るため親友の大輔が次々に持ちこむ相談を、除霊や浄霊をして解決していく。  しかし、|封《ふう》|印《いん》を|解《と》かれ、この世に|蘇《よみがえ》ろうとする|魑魅魍魎《ちみもうりょう》に、竜憲の肉体は|蝕《むしば》まれ始めていた……! [#ここで字下げ終わり] ●|姉《あね》|崎《ざき》|大《だい》|輔《すけ》 [#ここから1字下げ]  竜憲の幼なじみ。妖怪魔物の類は信じていないし、感じない。そのために、竜憲の“|護《ご》|符《ふ》”として、しばしば呼びだされる。竜憲の能力を信用してはいないが、女友達から幽霊話などの相談事を持ちかけられると、押しつけては解決させ、商売にしている。しかし、|封《ふう》|印《いん》を|解《と》かれた魔鏡の|変《へん》|化《げ》を|目《ま》のあたりにしたとき、霊に対する認識は微妙に変わりつつあった。 [#ここで字下げ終わり] ●|律《りっ》|泉《せん》|沙《さ》|弥《や》|子《こ》 [#ここから1字下げ]  竜憲と大輔の後輩。大道寺家と同じく、|陰陽《おんみょう》に関わる旧家の娘。霊を操ることはできないのに、|旺《おう》|盛《せい》な好奇心が災いして、倉に|棲《す》みつく霊の|封《ふう》|印《いん》を|解《と》いてしまった。 [#ここで字下げ終わり] ●|大《だい》|道《どう》|寺《じ》|忠《ただ》|利《のり》 [#ここから1字下げ]  竜憲の父。|陰陽道《おんみょうどう》の|頭《かみ》である。  竜憲に|取《と》り|憑《つ》いた霊を退治するため、|祈《き》|祷《とう》を続ける。だが、この道の第一人者の彼でさえ|敵《かな》わぬ強大な相手が待っていた。 [#ここで字下げ終わり] ●|鴻《おおとり》 |恵《けい》|二《じ》 [#ここから1字下げ]  大道寺忠利の一番弟子。  忠利不在のときに頼れるのは、この男のほかにはいない。竜憲に|取《と》り|憑《つ》いた霊の正体を見破り、浄霊を試みる。 [#ここで字下げ終わり] ●|大道寺真紀子《だいどうじまきこ》 [#ここから1字下げ]  竜憲の母親。霊の存在を信じないわけではないが、見たことはない。本人の|結《けっ》|界《かい》が霊を近寄らせないことさえ、気づいていない。大道寺家の“|護《ご》|符《ふ》”である。 [#ここで字下げ終わり]     序 章  スティルオン・タブに指を引っかけ、ためらいがちに引き開ける。 「……わかった。言い訳はいいから、何があったのか、ちゃんと教えてくれないか?」  肩と|顎《あご》の間に受話器をはさみ、形のよい|眉《まゆ》を|歪《ゆが》めた青年は、ビールに口をつけた。 『だからだな。どうしても見てほしいって頼まれたんだよ。……聞いてるのか? リョウ!』 「聞いている」 『|大《だい》|道《どう》|寺《じ》|忠《ただ》|利《のり》の息子だってだけで、もう向こうは必死なんだ。|断《ことわ》ったりしたら、全部お前のせいにされるぞ』 「それはわかったから、何があったのか、教えてくれと言っているだろ……」  再びビールを飲みほした青年が、バス・ローブの前を|緩《ゆる》めて風を送りこんだ。 『そうは言ってもな。……その目で見る——』 「——|大《だい》|輔《すけ》。……わかってるな。とにかく来てくれってのはなし!」 『いつ|俺《おれ》が……』 「いつも! あんたの大変だを真に受けてたら、いくつ身体があったって足りやしない」  そう断じると、半分ほど|空《から》にした|缶《かん》を、サイド・テーブルの上に置く。 「言っとくが……言わないかぎり行かないよ。——じゃあな」  言い捨てて、電話を切る。  へたに有名な|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》の息子だということで、妙な話がよく持ち込まれる。家相を見てくれから始まって、|守《しゅ》|護《ご》|霊《れい》を見てくれ、何かが|取《と》り|憑《つ》いているからどうのだの、それこそ、|呪《のろ》いを|解《と》いてくれだの。  もちろん、それらの相談事に応じられるのなら、付き合ってやってもいいのだが、残念なことに自分には父親の能力は正統に|引《ひ》き|継《つ》がれてはいないのである。育った環境が環境なのだから、外の人間に比べれば多少は……という程度なのだ。家に伝わる系図によれば、開祖は|陰陽《おんみょう》の|頭《かみ》だというのだから、|己《おのれ》はまったく|不肖《ふしょう》の息子というところだろう。もっとも、そんな系図を|鵜《う》|呑《の》みにしているわけではなかったが。  その不肖の息子が|何故《な ぜ》、こんな電話の相手をしているかといえば、すべては、電話の向こうで騒ぎ立てていた男のせいだった。  同じ大学に籍を置く、高校時代からの悪友。  本当のところ、|爪《つめ》の先ほども信じてはいないくせに、大道寺忠利の名を持ち出してまで、依頼[#「依頼」に傍点]を作り上げているのは彼なのだ。勝手に妙な仕事[#「仕事」に傍点]を引き受けては、持ちかけてくるのである。長い付き合いだし、いろいろと世話になっている分だけ断りきれない。  なんといっても、試験が近くなれば、彼のノートは絶対的な戦力になるのだ。  そんな弱みがあること自体、自分の責任だと思うと、余計に腹が立ってくる。それをさらにあおるようなものが、目の前にあった。  テーブルに積み上げられたダイレクト・メールの山。|竜憲《りょうけん》は|苛《いら》|立《だ》たしげに|掴《つか》むと、いいかげんにめくり始める。  |霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》などという、恐ろしく現実離れした職業を持つ者の家にも、様々なカタログが届けられるのだ。ダイドウジリュウケンという|宛《あて》|名《な》を、|眉《まゆ》をしかめて|眺《なが》め下ろす。  この家には、リュウケンなどという人間はいない。そう特殊な漢字でもないのに読みを|間《ま》|違《ちが》えているあたり、名簿の出所が想像できた。 「いい加減なところから名簿を買ったな……」  竜憲をリョウケンと読めないようでは、表書きを書き写した人間は|素人《しろうと》だろう。  ダイレクト・メールの|束《たば》の中に、ゴルフ会員権のパンフレットを見つけ、|忌《い》ま|忌《い》ましげに破り捨てた。  ペンキをぶちまけたような緑のコースの写真が、背筋を|粟《あわ》|立《だ》たせる。  大地の悲鳴が聞こえるようで。  なるほど、竜憲は常人にはない力を持っていた。ただし、大輔が期待しているような力ではなく、誰に言っても感謝されないようなものなら、多少はある。  |漠《ばく》|然《ぜん》とした恐怖や、敵意を様々な場所から感じるのだ。  普通の人間からみればなんの変哲もない場所で、足がすくんでしまうことがある。子供が|闇《やみ》を|怖《こわ》がるように、そこには絶対的な恐怖が存在するのだ。  どうやら、自然破壊と関係ありそうだということはわかったが、それも確実とはいえない。自然を破壊しているという点では、竜憲の家など有数の歴史がある。すくなくとも、首都圏といわれる地域では、真っ先に大規模な破壊が行われた場所なのだ。  江戸|開闢《かいびゃく》より千年も古い。  古都といわれるだけあって、そこここに|怨霊話《おんりょうばなし》は伝わっていたが、すくなくとも竜憲を悩ませるような|気《け》|配《はい》を感じたことはなかった。 「……まったく……」  くずかごの中からも、冷気が立ち上るような気がする。  大輔の電話のせいだろう。  そう思い決めた竜憲は、|缶《かん》ビールに手を伸ばした。  と、再び電話が鳴る。  むっと顔をしかめたが、ふと|頬《ほお》が|緩《ゆる》む。  相手は女だ。  大輔なら、女好きの|勘《かん》だと言うだろうが、竜憲は受話器を取るまえに相手の性別を判断することができた。 「……はい。大道寺……」  連絡を入れる可能性のある女たちを思い浮かべながら、受話器に耳を当てる。 『リョウちゃん! リョウちゃん? ……来て! 今すぐ来て!』  |圧《お》し殺した声が、息で叫んでいた。 「サコ? ……どうしたんだ、いったい……」 『来てよ。大変なことになっちゃったの……』  幼なじみの娘の顔を思い浮かべ、竜憲は大きく息を|吐《は》いた。 「事故ったのか? だったら警察に……」 『そんなんじゃない。事故だったら、さっさと保険屋に電話するわよ。リョウちゃんに電話するわけないじゃん』 「じゃあ何があったんだ? |幽《ゆう》|霊《れい》が出たっていうんなら|親《おや》|父《じ》に頼んでやろうか?」  |宥《なだ》めるつもりの軽い|冗談《じょうだん》に、相手は思いがけず、|過剰《かじょう》に反応し、強い調子で断固として否定する。 『ダメ! ……とにかく来て! お願いよ!』  |慌《あわ》ただしく電話が切られる。  再び息を吐いた竜憲は、わずかばかり残ったビールを流しこんだ。  今日は説明もなく呼びつけられる日らしい。大輔はいつものことだとしても、|律《りっ》|泉《せん》|沙《さ》|弥《や》|子《こ》は本来、そんな|所業《しょぎょう》に出る娘ではなかった。  本当に何かがあったのだ。  |不《ふ》|吉《きつ》の|前兆《ぜんちょう》かもしれない。 「……まったく……」  軽口が|叩《たた》けるあたり、そこまでせっぱ詰まった状況ではないだろうが、そのまま捨て置くのも気が引ける。  どうやら、沙弥子のほうは巻き込まれてしまったようだ。  ふと、目を輝かせた竜憲は、電話に手を伸ばすと、短縮番号を押した。  |些《さ》|細《さい》な|復讐《ふくしゅう》。  我ながら子供っぽいと思いながらも、竜憲は大輔に電話を入れた。     第一章 破 鏡      1 「|律《りっ》|泉《せん》を人に押しつけといて寝ているとはいい|根性《こんじょう》だな!」  ドアを引き開けると同時に、巨大な|熊《くま》が|吠《ほ》えた。 「……静かにしろよ。誰が寝ているって?」  入り口を|塞《ふさ》ぐほどの大男は|姉《あね》|崎《ざき》|大《だい》|輔《すけ》。長身ではあるが、けっして太ってはいない男は、厚手のセーターの上にグレイのウールのコートを着込み、灰色熊に成り果てている。  目を|剥《む》いた|竜憲《りょうけん》は、しげしげと|着《き》|膨《ぶく》れの灰色熊を|眺《なが》めた。 「外は、そんなに寒いんか?」  広い肩幅をさらに強調するように、肩の張ったデザインのコートには、雪の|名《な》|残《ごり》がついている。 「はっきりいって寒い。……ここは暑いな……」  突然、ここが室内だと気づいた大輔は、コートのボタンに手を伸ばした。厚手の手袋をはめたまま、器用にボタンをはずすと、その下にはマフラーまで巻いている。 「……で、サコは何を騒いでたんだ?」 「人をメッセンジャー・ボーイにしといて、それか? あの、|肝《きも》のすわった律泉が|怯《おび》えてるっていうから、行ってやったら……」  セーターも|脱《ぬ》ぐと、その下からさらに厚手のシャツが現れる。北の|涯《はて》に住んでいるわけではないのだ。いくら寒がりの人間でも、重装備すぎる。  ゆっくりと、|椅《い》|子《す》から立ち上がった竜憲は、大輔の背後を|窺《うかが》った。  なんの|気《け》|配《はい》もない。  本人は超常現象の|類《たぐい》をいっさい信じないし、何より|縁《えん》のない男なのだが、万が一という場合がある。それほど冷気を感じるのなら、よほどよくないものでも拾って[#「拾って」に傍点]きたのか、とも思ったが、どうやら単なる異常気象のようだ。  実際、そんな程度が世の常だ。父の|係《かか》わるような|派《は》|手《で》な幽霊騒ぎ[#「幽霊騒ぎ」に傍点]など、そうそうあちこちに|転《ころ》がってはいない。  ほっと息を|吐《は》き、椅子に腰を落とすと、ようやく人に戻った大輔を眺める。 「座れば?」 「あ……ああ」  座れといっても、|床《ゆか》に座るか、ベッドに腰かけるか。まぁそんなものである。  何を考えているのか、しばらく迷って、大輔は床に座りこんだ。 「……で?」  一瞬|眉《まゆ》を寄せた大輔は、まじまじと竜憲を|眺《なが》め上げた。 「何、|拗《す》ねてんだ、お前」  むっと顔をしかめたものの、返す言葉がない。  完全に読まれている。これだから、いいように|担《かつ》ぎ出されるのだとはわかっているのだが、こればかりは|如何《い か ん》ともし難い。 「……まぁいい」 「何が……」  口の中で|呟《つぶや》いた竜憲を、ちらりと見やった大輔は、小さく|咳《せき》|払《ばら》いをすると、ポケットから小さな手帳を取り出した。  おもむろにもったいぶってページを|繰《く》り始める。  竜憲はむすりと口を|噤《つぐ》んだまま、彼の手もとを見守った。  何かとメモに残すのが、彼の習慣だ。竜憲などより、|遥《はる》かに優秀な記憶力を持っているくせに、|事《こと》|細《こま》かに書き控えているあたりが|嫌《いや》|味《み》だった。何よりそのメモというのが、その場で|記《しる》したものではないのだ。あとから記憶を頼りに整理しているというのに、|何故《な ぜ》か恐ろしく正確なのである。同じくなんでも書き留めておくわりには、それを役立てる機会を|逸《いっ》する自分とは、ずいぶんと違う。  少々|卑《ひ》|屈《くつ》なことを考えながら、竜憲は|辛《しん》|抱《ぼう》強く彼が口を開くのを待った。  やがて、大輔が|唐《とう》|突《とつ》に|喋《しゃべ》りだす。 「……お前、律泉ん|家《ち》の裏の倉知ってるか? ——あの、|竹《たけ》|藪《やぶ》の真ん中にある妙な倉」  |大《だい》|道《どう》|寺《じ》の家と同じく、かなりの旧家である|沙《さ》|弥《や》|子《こ》の家には、それこそ、いつ建てられたのかもしれないような倉がいくつかあるのだ。そのなかでも、大輔の言う倉は、少し変わっている。  意味ありげに、屋敷の裏手の竹藪の中に建てられた倉。文化財に指定されそうな|母《おも》|屋《や》と違って、そこまで古くもなければ特殊でもないのだが、その建てられた場所がまず妙なのだ。そのうえ、|修繕《しゅうぜん》はおろか、|掃《そう》|除《じ》をしたこともなければ、中を|覗《のぞ》いたことさえないというのだから、|未《いま》だにそこに建っていることが、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なのである。妙と言う以外に形容のしようがない。  その倉を思い浮かべ、竜憲は念を押すように問い返した。 「え? あの……古い倉のこと……か?」 「そうだ」 「それが、どうかしたわけ?」 「いや、律泉の|奴《やつ》、中が竹の子だらけか調べたらしい」 「は?」  目を見開き、|顎《あご》を落とした竜憲を、大輔はしごく真剣な表情で見上げている。 「……あ、ああ。もしかして、あんたが言った……例の」  ずいぶん前の話になるが、その倉の話をしたとたん、大輔が|竹《たけ》|藪《やぶ》の中に倉を建てる人間の気がしれないと言った事があるのだ。竹が土台を突き破って、倉の役目など|全《まっと》うできるはずがないと。聞いてみればずいぶんと理に|適《かな》った話で、沙弥子がしごく感心していたのを思い出す。 「でも、まさか……」 「当たり前だ。真に受けるなよ」  竜憲は|膝《ひざ》に|片《かた》|肘《ひじ》を突くと、|溜《た》め|息《いき》を|吐《は》いた。  いまの|台詞《せ り ふ》は聞かなかったことにする。 「サコはなんて言ってた?」  ひょいと肩をすくめ、大輔が手帳の間からなにやらつまみ上げた。  見たところ、ただの|紙《かみ》|屑《くず》。それを、竜憲に差し出しながら、らしくもなく|曖《あい》|昧《まい》に答える。 「なんだか知らんが、|封《ふう》|印《いん》を|解《と》いちまった……とさ」 「封印?」  |訝《いぶか》しげに|眉《まゆ》を寄せ、それでも紙屑を|掌《てのひら》に受け取った。  ただの古びた紙の切れ端としか見えないそれが|触《ふ》れたとたん、背筋に|悪《お》|寒《かん》が走る。何が感じられるというわけではない。明確なものなど何もないのだが、強力な念が封じられていたものだということはわかる。  竜憲の目が大きく見開かれた。 「|護《ご》|符《ふ》か?」 「……そう、いまとなってはただのゴミだがな」 「いったい|何処《ど こ》にあったんだ……こんなものが」  言いながらも、自分の声が|震《ふる》えているのがわかる。  大輔が目を|瞬《しばたた》かせた。  竜憲の思わぬ真剣な|声《こわ》|音《ね》に驚いたらしい。実際、竜憲自身も驚いているのだ。こんなもの[#「こんなもの」に傍点]が|絡《から》んでいるのなら、自分が行くべきだったと後悔している。対処できるかどうかはともかく、状況は|把《は》|握《あく》できたかもしれないのだ。  いまさらながら、沙弥子の|動《どう》|揺《よう》が理解できる。  そもそも、沙弥子の家も、大道寺とは|縁《えん》|続《つづ》きなのだ。|未《いま》だに|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》などという、うさんくさい商売をしている大道寺とは違って、まともな人間の商売に|鞍《くら》|替《が》えした律泉の家でも、古くから伝わる護符や|呪術《じゅじゅつ》の道具は|腐《くさ》るほどあるはずなのである。そのなかに、恐ろしげな封印があったとしても、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》はないだろう。  一瞬、父親のことが頭を|掠《かす》めた。  いますぐ言うべきか、それとも……。 「大輔。付き合う?」  立ち上がった竜憲を、大輔は|眇《すが》めた目で見上げた。 「どこへ?」 「サコんとこ」  |椅《い》|子《す》の背にかけたジャケットを|羽《は》|織《お》りながら、答える。 「だったら、|最初《は な》っから自分で行けよ! ……まったく」 「行かないわけ?」  |扉《とびら》に手をかけながら、もう一度問いただす。 「行くよ!」  コートにセーター、マフラー。ぬいぐるみの材料を引っ|掴《つか》んだ大輔が、|慌《あわ》ててあとを追いかけてくる。  |密《ひそ》かに笑った竜憲は、自分の部屋を後にした。  手の中に握り締めたままの、|護《ご》|符《ふ》の切れ端からは、先ほど感じた強烈な念は消え去っている。  どうやら、一瞬感じただけの、残留思念のようなものだったらしい。どちらにしても、恐ろしく古いものであることだけはたしかなのだ。それが|封《ふう》|印《いん》として役立っていたのかも、いまとなっては疑わしい。 「あら……リョウちゃん。お出かけ?」  不意に声がかかる。 「あ……かあさん。——うん。そうだけど……」  何をしているわけでもないのに、母親に声をかけられただけで、妙に後ろ暗いのは手の中の護符の破片のせいかもしれない。 「……お|邪《じゃ》|魔《ま》してます。……あ、もう、しました。か……」  わけのわからぬ|挨《あい》|拶《さつ》をした大輔に、にこやかに笑い返した母親は、竜憲を見上げて小さな声で聞く。 「お夕飯までには帰るの?」 「え? ……たぶん」  にやにやと笑う大輔を、じろりと|睨《にら》む。 「お邪魔しました」  あらためて、軽く頭を下げた大輔をせかして、竜憲は長い|廊《ろう》|下《か》を歩き始めた。      2  脇道から幹線に出たとたんに、車の動きはぴたりと止まった。  毎度の事とはいいながら、腹立たしいかぎりである。幹線道路とはいいながら、新興住宅地のメインストリートのほうが|遥《はる》かに広く整然としているような、曲がりくねった|狭《せま》い道なのだから、何がなくとも混雑して当然だった。  車以外の交通|網《もう》が整備されているというのなら、それで事足りるのだが、この周辺は公共の交通機関といえば、バスくらいしかないのだから、あながち車で動く人間を責めるわけにもいかない。 「だから……歩いたほうが早いって言ったじゃない。この時間は込むんだからさ」 「寒い」  別段|苛《いら》ついた|素《そ》|振《ぶ》りも見せず、助手席に納まり返った|相《あい》|棒《ぼう》を|眇《すが》めた目で見やった|竜憲《りょうけん》は、車の列がとろとろと動き始めたのを視界の|隅《すみ》に捕らえると、|慌《あわ》ててシフトを入れ直した。  免許は高校三年の冬休みに、一緒に取りに行ったのだが、|大《だい》|輔《すけ》が目的どおりに利用しているのを見たことがない。クラスメートが受験で苦しんでいるのを横目に、さっさと|推《すい》|薦《せん》入学の許可を取り付けた二人は、それこそ、|寸《すん》|暇《か》を|惜《お》しんで動き回っていたのだ。  運転免許証もその成果の一つだが、身分証明書代わりに使うには、高くついたというべきなのだろう。 「寒そうだな。……この調子じゃ、夜中には|凍《こお》るぞ……」  大輔の言葉を裏づけるように、道路脇に並んだ家の植え込みが、白くなっている。雪はやんだようだが、気温は低いままなのだ。大雪でも降ってくれたほうが暖かくなるに違いない。  へたに湿気があるぶん、夜中には路面が凍ることを|覚《かく》|悟《ご》したほうがいいだろう。 「そういえば……。中坊の頃、エライ大雪で、鉄塔がブッ倒れたことがあったよな……」  突然、大輔は古い話を思い出した。 「|大丈夫《だいじょうぶ》だろう。百年に一度のことだそうだ」  ひょいと|眉《まゆ》を上げた大輔は、シートに背を預けて竜憲を|眺《なが》めやる。  百年に一度などという言い訳を、まともに信じる男ではない。それが、あっさりと会話を打ち切るあたり、よほど気にかかることがあるのだろう。  それとも、警戒しているのだろうか。  大輔が持ち込む話を引き受けるのは、竜憲には不服なのだ。今度のことも、いずれ引き受けるだろうが、どんどん|渋《しぶ》り方が|酷《ひど》くなっている。そのうち、本気でおどしつけなければならなくなるだろう。  たいていの女は、超常現象に悩まされている友人を持っているのだ。|大《だい》|道《どう》|寺《じ》|忠《ただ》|利《のり》の息子を友人に持っているのだから、それを利用しない手はない。  |霊《れい》に|取《と》り|憑《つ》かれただの、先祖の|祟《たた》りなど、どうせ本人の思い込みなのだ。誰でも見る[#「見る」に傍点]という場所に連れて行かれても、大輔が同行すると“妙なことに”何も起こらなかった。  そいつらの頭のほうがよほど“妙”だと思うが、積極的に否定したことは一度もない。  もっとも、竜憲は彼が超常現象を信じていないことを薄々感づいているようだった。  ろくに動きもしない車の列を真剣な顔で|見《み》|据《す》える男は、たしかに|勘《かん》だけはよい。  めったにないことではあるが、連れ出した先で妙に真剣な顔をして“|破《は》|魔《ま》の術”とやらを使うこともあった。  女たちが声をかけることをためらうほど整った顔を、思い切りよく|歪《ゆが》めて、何か[#「何か」に傍点]と戦う姿を演技と決めつけるのは、いささか気が引ける。何しろ、無理にひっぱりだしたのは自分なのだ。  どちらにしろ、そんな戦い[#「戦い」に傍点]があった後、大輔は依頼人に感謝されることになる。なかには竜憲に興味を示す女もいたが、たいていは頼りがいがある男として、特別な位置を確保できるのだ。  そうやって獲得したガールフレンドは片手に余る。  依頼人を満足させるという点では、竜憲は立派な|霊能力者《れいのうりょくしゃ》と言えた。  しかし、竜憲のほうから動いたのは今回が初めてだ。  |沙《さ》|弥《や》|子《こ》のことを単なる幼なじみと言っていたが、気にしているのはたしかだろう。 「……何をにやついているんだ?」  前を見ているとばかり思っていた竜憲が、ひどく冷たい声を出す。 「いや……。あの|律《りっ》|泉《せん》が|怯《おび》えることなんてあるのか、と思ってな……」  あの、に力を込めて、こもった笑いをもらした。 「よほどのものだったんだろう。……サコはけっこう見られる[#「見られる」に傍点]ほうだからな……。もっとも見るだけらしいが……」 「|幽《ゆう》|霊《れい》だの、|化《ば》け|物《もの》だのがか?」 「……信じないのは勝手だがな……」 「信じているとも。だから、お前に頼むんだろうが……」  ひょいと|片《かた》|眉《まゆ》を上げた竜憲は、二台前の車の横にある脇道を|溜《た》め|息《いき》とともに見つめた。  そこを曲がれば、すぐに律泉の家がある。  家というよりは、屋敷。  幹線道路からでは、ただの林にしか見えないが、その奥に家が|隠《かく》されているのだ。ここまでなら、歩いても十五分ほどだが、曲がりくねった急な坂道を上り切るのに、十分はかかる。  車でならものの数秒だった。  しかし、それを計算に入れても、脇道が見え始めてから、|辿《たど》り着くまで十分以上かかったことを考えれば、歩いたほうが早かった。 「……信じてないな……」 「何をだ?」 「俺が信じてることを……。そりゃ|幽《ゆう》|霊《れい》だのなんだのは見たこともないがな。見えるっていうヤツがいるんなら、見えてるんだろう。見たことがないってんなら、俺はヤンバルクイナだって見たことはない。……けどいるんだろ? たしかに……」  |饒舌《じょうぜつ》が、|嘘《うそ》を証明している。  鼻先で笑った竜憲は、前の車が動くと同時に、脇道に入った。  大輔がどう考えようと、たしかに何かが起こっている。  幹線をはずれた瞬間、恐ろしいほどの冷気が車を包み込んだのだ。 「うっ、寒いな……。排気ガスでも、ちったあ|温《あたた》かいのかな……。ヒーターの温度を上げていいな」  エアコンに手を伸ばす大輔も、冷気は感じているようだ。しかし、その理由を単なる気温と考えているようだ。 「こんなに急に冷えると思うか?」 「冷えてんだから冷えてんだろ。それとも俺が熱でも出したってのか?」  この現実主義者には、何を言っても|無《む》|駄《だ》らしい。  門が見えると同時に、黒い|塊《かたまり》が道に飛び出してきた。 「サコ!」 「あっぶねえな! 何考えてやがんだ」  さしてスピードを出しているわけではなかったが、車に飛び込まんばかりの勢いで立ちふさがった沙弥子は、大きく手を振った。 「来てくれたの!」  パワーウインドウがゆっくりと下りるのを待ち切れないのか、沙弥子はドアを引き開けた。 「とにかく来てよ。車はそこいらにほっといていいから……。オヤジにみつかるとマズイのよ!」 “お父さま”が生息するほうが似合いのお屋敷の娘は、黒い革ツナギに黒いコートを着込んで、長い髪をポニー・テールにしていた。  ツナギには|泥《どろ》がついているあたり、バイクで事故を起こしたという|風《ふう》|体《てい》だ。 「なんだって倉なんか……」 「しようがないじゃん。とにかく、とんでもないものを出しちゃったみたいなのよ! 来てよ。まだいるから……」  見る[#「見る」に傍点]能力だけはある沙弥子は、ひどく顔色が悪い。|祓《はら》うことも|退《たい》|治《じ》することもできないが、見られるだけに避けて通るという、しごく現実的な対応をする女だ。  それが、どうにかしなければならない[#「どうにかしなければならない」に傍点]と思うほどのものを解放してしまったらしい。 「こんなところに止めておいたら、|迷《めい》|惑《わく》じゃ……」 「いいよ。どうせオヤジはまだ帰ってないから……。オフクロにめっかるとヤバイしさ。|姉《あね》|崎《ざき》先輩。先輩も来てください」  助手席のドアを引き開けたくせに、自分を無視して身を乗り出した後輩に、にっこりと笑ってみせた大輔は、|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に肩をすくめるとコートの|襟《えり》を立てた。 「それにしても寒いな……。もうすぐ三月だってのに……」 「すみません。|封《ふう》|印《いん》を|剥《は》がしたら、こんなになっちゃって……」  やはりこの冷気は、気候だけではないようだ。しかし、大輔には沙弥子の言葉の意味が伝わらなかったらしい。  |訝《いぶか》しげに|眉《まゆ》を寄せたまま、ゆっくりと車を降りる。 「つきあうのはいいが……俺は何もできないぞ。何も見えないし、何も聞こえないからな。そんな能力はまるっきりないらしい」  たとえ単なる後輩でも、女を前にすると声のトーンが低くなり、いい男を演じようとする大輔を|呆《あき》れ顔で見やった竜憲は、自分も車を降りた。  沙弥子に気があるわけではない。単なる条件反射で、大輔は|格《かっ》|好《こう》をつけてコートを|羽《は》|織《お》っていた。 「……あの倉には近づくなと言われてたんだろ」 「いつ壊れてもおかしくないからって。まさか、あんなものが……」  大輔の演技に気づきもせずに、沙弥子は竜憲を見上げている。 「どうやって開けた? たしか、|鍵《かぎ》もなくなっているとか……」 「あったのよ。このまえ、停学くらった時に、倉の——|母《おも》|屋《や》の|隣《となり》のヤツ——の|掃《そう》|除《じ》をさせられてさ。そしたら、|長《なが》|持《もち》の中に……」 「停学? 何やったんだ、お前」 「バイクの免許を持ってんのがバレただけ。……で、古いものだし、もしかしたら何かあるかもしれないって……」  口を|挟《はさ》んだ大輔に簡単に応じて、話を続ける。 「中の|様《よう》|子《す》は?」 「ゴミの山。……って言うか、とにかく巻物と、変な道具が山になってて……。奥が光ったような気がして、見たら鏡があったのよ……」  竜憲の腕を引いて、沙弥子はそのまま歩き始めた。  恐ろしい勢いで歩く沙弥子につきあっているものの、足が重くなっていく。  何が|封《ふう》じられていたのかはわからないが、とんでもないものだということは、ここからでもわかった。  |肌《はだ》に|突《つ》き|刺《さ》さるような冷気。そのうえ、|飢《う》えとでも言うしかないような感覚が混じっている。  |犠《ぎ》|牲《せい》|者《しゃ》を求めているのだろうか。  あまりに長く封じられていたために、|戸《と》|惑《まど》っているのかもしれない。倉のまわりに止まっているというのが、|唯《ゆい》|一《いつ》の救いだろう。 「……その鏡に|封《ふう》|印《いん》されていたんだな」 「だと思うけど……。姉崎先輩に渡した紙を見てくれた?」 「ああ……」 「いくらなんでも、|剥《は》がしたりしてないよ。そこまで|馬《ば》|鹿《か》じゃないからね。近づいただけで、こう、ふわりって感じで……」  手を宙に舞わせた少女の肩を、|慰《なぐさ》めるように抱く。 「倉に入った時には、何も感じなかったんだろ? サコがわからなかったんじゃ、よっぽどうまく隠れていたんだ……」 「……だと、思う。とにかく、お|札《ふだ》が落ちた瞬間に……」  ぶるっと身体を|震《ふる》わせた沙弥子の肩を抱く腕に力を込めた竜憲は、木の林が竹に変わるあたりに目をやった。  かつては、ここにも|塀《へい》がめぐらされていたことを示す|名《な》|残《ごり》の石積みが、ところどころ土から顔を出している。  問題の倉を守るために、律泉の屋敷は建てられたのかもしれない。頭の中で塀を再現してみると、どうも中央に倉があるような気がしてきた。 「……早く。まだいると思うから……。リョウちゃんならきっと……」 「|親《おや》|父《じ》を呼んだほうがいいかもしれないな……」 「とにかく一度見てよ。どうしても無理ってんなら、|諦《あきら》めるけど……。うちのオヤジがうるさいのは知ってるでしょ? このまえの停学で、えらい勢いで怒ってて……。今度何かやったら、留学させるっていうのよ。あれは本気だわ。国内で|馬《ば》|鹿《か》をやるぐらいなら、外国へ行けってさ……」  体面をおもんぱかる人物とは聞いていたが、そこまでやるとは思えない。しかし、沙弥子は本気にしているようだった。 「……そうだな。……始末できるといいが……」  口ではそう言ったものの、竜憲は|半《なか》ば諦めていた。  おそらく、父親の手を借りなければ、どうにもならないだろう。  それほど、強い気が迫ってくる。  明確な敵意は見えないだけに、余計に|不《ぶ》|気《き》|味《み》だ。  へたに能力のある人間が近づけば、敵と認識されるかもしれない。こうなれば、自分の力が足りないことを信じたほうがよさそうだ。  |肌《はだ》を|刺《さ》すほどの冷気が襲ってくるというのに、|掌《てのひら》がじっとりと汗ばむ。  それでも、かすかな|好《こう》|奇《き》|心《しん》が竜憲の足を前に進ませていた。      3  開け放たれた|扉《とびら》。  大時代な|錠前《じょうまえ》は|沙《さ》|弥《や》|子《こ》の言葉どおり、|鍵《かぎ》で開けられていた。  なるほど、ここの鍵かもしれないと思えば、合わせてみたくなるのが人情だろう。沙弥子の失態は、|責《せ》められないものだった。 「……どうだ? 何かあるのか?」  |竜憲《りょうけん》と沙弥子の恐怖など、まるで関係ないような顔で、|大《だい》|輔《すけ》は足踏みしていた。  寒いということだけが、彼の不満らしい。  その長身だけで、たいていの暴力|沙《ざ》|汰《た》は避けて通れる男だが、こんな時にはまるで役に立たないのだ。|唯《ゆい》|一《いつ》の救いといえば、向こう[#「向こう」に傍点]も大輔には興味を示さないという点だった。 「大輔……」 「ん?」  ひょいと片方の肩を落とした大輔が、顔を低くする。 「何かあったら沙弥子を連れて逃げろ」 「何か?」  まったく信じていない男に何を言っても|無《む》|駄《だ》だろうが、沙弥子ぐらいなら、|担《かつ》いででも逃げるだけの体力はある。何より、女に危険が迫れば言われなくとも、守ろうとするだろう。  心配なのは、その危険が大輔に見えるか、という点だけだった。 「……リョウちゃん……」 「ああ。まだいるな……」 「屋根のところでしょ? まわりを見ているみたいだけど……」 「そうだな……」  二人の会話を、大輔は|呆《あき》れ顔で聞いていた。  彼の目には何も見えないし、何も聞こえない。それどころか、夕日を浴びた竹が|綺《き》|麗《れい》だと思うぐらいである。  葉の表面に張り付いた雪が|薄《うす》|紅《べに》の光を|弾《はじ》き、くすんだ緑に複雑な色合いを加えていた。  それでも、|景《け》|色《しき》を楽しむ気にならないのは、二人が真剣な顔をしているからだった。  ゆっくりと目を|眇《すが》める竜憲と、歯を食いしばって倉の屋根を|睨《にら》む沙弥子。  普段は思ったこともないのだが、こうしてみるとよく似ている。  顔の|造《ぞう》|作《さく》とか、竜憲が女顔だということではない。取り巻く|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が似ているのだ。  言ってみれば、常人にはない力を持った人間の、精気ということだろう。|幽《ゆう》|霊《れい》だの|化《ば》け|物《もの》だのというものは信用できないが、たとえ思い込みだとしても、それと戦おうとする人間には、共通の力があるようだった。 「こっちを……見た!」  沙弥子が叫ぶ。  ばっと身構えた竜憲は右手を突き出して、低くうなった。  屋根の上のもの[#「もの」に傍点]の視線は感じる。  だが、その正体はおろか、姿を見ることもできない。  こんなことは初めてだった。  大輔が持ち込む話に、仕方なく付き合った時でも、一目で正体は見て取れた。本人の恐怖が、身体に|纏《まと》いついているだけの時もあれば、|呆《あき》れるほど大量の|霊《れい》を連れているものもいる。依頼人のほとんどは思い込みだけで、本人の性格以外に何も問題はなかった。何かが|憑《つ》いていれば、それがたとえ害を与えないものでも、見ることはできたのである。  それが、見えないのだ。  漠然とした形はわかるし、意思らしきものも感じる。  しかし正体となると、それが人の形をしているらしいということがわかるだけだ。 「……サコ……。どこまで見える?」 「ぼんやりとしてる。……光の|靄《もや》みたい……」  沙弥子も大差ないようだ。  竜憲と違って、本人の意思とは関係なく、どんなものでも見えてしまう少女は、|拳《こぶし》を握りしめて恐怖と闘っていた。 「正体もわからないんじゃ……手の打ちようがないな……」 「リョウちゃんでも、わからない?」 「ああ……」  こんなものがいるとわかっていながら、再び足を運べた少女の意思に感心する。  それ[#「それ」に傍点]に恐ろしいほどの力があることは、正体がわからなくても、はっきりとしているのだ。彼らに向かってこないのは、単に、それ[#「それ」に傍点]が敵と認めるほどの力がないというだけのことだろう。 「……サコ……。悪いが……|親《おや》|父《じ》に頼むしかないみたいだ……」 「うん……。けど……あいつ、あたしは見もしなかったのよね。やっぱ、リョウちゃんだと違うよね……」  沙弥子も同じ結論を出したようだ。  このまま放置することはできないが、敵と認識されないのでは戦うこともできない。もちろん、こんな化け物とは戦いたくもなかったが。  見境なく襲いかかるというわけではないあたり、意思があるのだろう。  それが、鏡に|封《ふう》じた人物への|復讐《ふくしゅう》ならば、|化《ば》け|物《もの》はこのまま動かないはずだ。どう考えても、生き延びているはずがない。 「……いったん引き上げて、|親《おや》|父《じ》に相談……」  かっと目を見開いた竜憲は、沙弥子を突き飛ばした。  足もとに、|深《しん》|紅《く》の光が突き|刺《さ》さる。 「リョウ!」 「逃げろ!」  どこへ逃げろというのか。  ふわりと舞い上がった|魔《ま》|物《もの》は、白い闇[#「白い闇」に傍点]に包まれていた。  何も見えなくなる。  あまりにも|眩《まぶ》しすぎるために、光は|闇《やみ》と同じように、竜憲の視界を奪っていた。 「くそっ!」  わけもなく腹が立つ。  魔物は、二人を|見《み》|据《す》えていたのだ。敵意が感じられなかったのは、観察していたからにほかならない。  封じられていた長い年月が、魔物の感覚を|鈍《にぶ》らせていたのだろう。そして、ようやく敵を見つけたのだ。 「大輔! 沙弥子を逃がせ!」  叫んで、身構える。  その|頬《ほお》を、光が|切《き》り|裂《さ》いた。  焼けるような痛み。  とろりと流れる血が、敵の力を教えてくれる。目で見ることはできなかったが、魔物が|比《ひ》|喩《ゆ》ではなく本当に魔物だと、わかった。  |肌《はだ》を引き裂いた光は、一瞬でそれだけのことを伝える。  すべての人が魔物の存在を信じた時代の魔物。  その力を|衰《おとろ》えさせることもなく、|悠久《ゆうきゅう》の時を眠り続けて、いまに|蘇《よみがえ》ったのだ。  |封《ふう》|印《いん》は、現代に魔物を送りこむタイム・カプセルの役割を果たしただけなのかもしれない。|破《は》|魔《ま》の術も、それを援助する人々の願いもなくなった時代に、魔物は復活したのだ。  ゆっくりと、|苛《いら》|立《だ》つほどゆったりと、血が頬を伝う。 『そなたは……何者……』  頭の奥で声がする。  |頭《ず》|蓋《がい》に響く声は、男のものとも女のものとも判別できなかった。  相変わらず、視界は光に閉ざされている。それでも、魔物が周囲を回っていることはわかった。  長い年月が、|魔《ま》|物《もの》が知る人間と、人間を変えてしまったのか。どう対処していいのか、迷っているのは魔物も同じだった。 「去れ! ここはお前の住むところではない。再び寝床に帰れ!」  |跋《ばっ》|扈《こ》する魔物と人が渡り合えた時代ですら、|亡《ほろ》ぼすことも|滅《めっ》することもできなかった魔物。そんなものとどう戦えばよいのか、竜憲にはわからなかった。 『何者じゃ! 言え!』  ふと、右耳に熱を感じて、身体を|捻《ひね》る。  同時に、地響きを立てて赤い光が大地に|叩《たた》き込まれた。  からかわれているのか。  殺そうと思えば、いつでも殺せるはずだ。  ひょっとすると、昔の、魔物を封じた人間に類するにおいが、竜憲にはあるのかもしれない。しかし、現実には彼にはたいした能力はなかった。  だからこそ、魔物も|戸《と》|惑《まど》っているのだ。  正体を知りたがるのも、そんなところか。 『誰じゃ!』  |苛《いら》|立《だ》っている。  見知らぬ世の中に迷い出て、どうすればよいのか、まだわからないのだろう。  |己《おのれ》を落ち着かせるように深い息を繰り返した竜憲は、手に意識を集中した。  この世に迷い出た|物《もの》の|化《け》の|類《たぐい》を始末したこともある。しかし、これは|桁《けた》|違《ちが》いの力を持っていた。  通じるだろうか。  いや、通じる。  自分に言い聞かせた。  |真《しん》|言《ごん》を口中で|唱《とな》え、|降《ごう》|魔《ま》|印《いん》を結ぶ。 『は!』  何か[#「何か」に傍点]が笑い始める。  一心に唱える真言も、まったく関係がないらしい。  肩のあたりに|漂《ただよ》っていたはずの|気《け》|配《はい》が、妙に楽しげな|煌《きらめ》きを放って、竜憲の周囲を舞い始める。 『……知っておるぞ。……そなたを……』  ぶつぶつと|呟《つぶや》く声が、ひどく|癇《かん》に|障《さわ》る。 『……|縁《えにし》よの……』  息で笑う。  一言|囁《ささや》かれるたびに、自分の気が乱れていくのがわかる。|脳《のう》|裏《り》に直接届く声は、竜憲の見よう見|真《ま》|似《ね》の修行の成果では無視しようにも|適《かな》わない。 『再び、|見《まみ》えようとは……』 「なんだと!」  思わず叫んだ、その時、舞い踊る光雲が、竜憲の身体を取り巻いた。  ふわりと周囲が暖かくなる。  |温《あたた》かい|抱《ほう》|擁《よう》。ちょうどそんな感じがした。  妙に|懐《なつ》かしく、心が落ち着く。  |呪中《じゅっちゅう》に落ちた。そう思った瞬間、意識が遠のく。  薄れる意識にしがみつこうと|もが[#「もが」は「足偏」+「宛」Uncicode="#8e20"]《もが》くのもつかの間、その意思さえも薄れ消え果てる。  やがて、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》に心安らぐ意識の|闇《やみ》に、竜憲は静かに身を沈めた。      4  誰かが耳もとで|囁《ささや》いている。  優しげな声で。  |穏《おだ》やかな|微睡《ま ど ろ》みの中で響く声は、奇妙に|己《おのれ》の|鼓《こ》|動《どう》と共鳴し、目覚めようとする意識を引き止める。  このまま、ずっと——。  何を囁いているのか、考えることもできない。ただ、|緩《ゆる》やかな声の流れが、自分を取り巻き、押し包む感触を楽しんでいた。  それでも、緩やかに意識を上昇させていく。目覚めに向けて。  と、不意にその声が、恐ろしく|耳《みみ》|障《ざわ》りなものに変わった。 「——リョウ!」  つい先ほどまでの甘い声が一変し、自分の名を呼ぶ。 「リョウ! おい! |竜憲《りょうけん》!」  それが誰の声か気づいた瞬間、竜憲は渋々と目を開いた。 「おい!」  叫ぶ|大《だい》|輔《すけ》の顔を、ぼんやりと見上げ、小さく|頷《うなず》く。 「しっかりしろ! ……|大丈夫《だいじょうぶ》か?」  むやみに大きな声が、|破《わ》れ|鐘《がね》を|叩《たた》くように頭の中に響く。 「うるさい……」  |露《ろ》|骨《こつ》に顔をしかめた竜憲を|眺《なが》め下ろす大輔の目が、一瞬険しくなった。それでも、とりあえず声を落とすと、もう一度問い直す。 「大丈夫か?」  大輔の肩越しに、ひどく|狼狽《う ろ た》えた顔をした|沙《さ》|弥《や》|子《こ》の顔が見えた。常日頃、見せたこともないような表情に、竜憲は内心苦笑した。  ——普段からこんなふうだったら、もう少し|可《か》|愛《わい》げに見えるのに——。  |埒《らち》もないことを考える自分の|脳《のう》|味《み》|噌《そ》に少々|呆《あき》れながら、|掠《かす》れた声をようやく出す。 「——ほんとにあんたの声はでかいんだからな。頭に響く……」 「悪かったな! ……人がせっかく……」  言いかけた|文《もん》|句《く》を飲み込み、竜憲を乱暴に引き起こす。 「……|姉《あね》|崎《ざき》先輩……もう少し……優しくね……」  恐る恐る声をかける沙弥子に、竜憲は上半身を引き起こし、にっこりと笑いかけた。地面に座り込んで、頭を小さく振る。  頭の|芯《しん》に残る頭痛は相変わらずだが、少しはすっきりしたようだ。 「……大丈夫……だって」 「でも……」  大輔が、言い|澱《よど》んだ沙弥子を振り返った。 「……家のほうは大丈夫なのか? バレたらまずいんだろう?」 「え……そうだけど……」  ようやく現実に引き戻されたのか、沙弥子は不安げに|母《おも》|屋《や》のほうを|窺《うかが》い見た。 「ここは大丈夫だから、様子を見てこい。ついでに、こいつを少し休ませてやりたいしな」 「う……うん。けど……」 「消えちまったんだろう? だったら、構わないじゃないか」  少しばかり声を荒らげた大輔を、竜憲はまじまじと眺めあげた。|覆《おお》い|被《かぶ》さるように|膝《ひざ》を折った姿が、なんといっても|邪《じゃ》|魔《ま》|臭《くさ》い。眺めていて妙に腹立たしいのは、これだけ|頑丈《がんじょう》そうな男が、まったく被害を|被《こうむ》っていないからだろうか。  沙弥子が走っていくのを見送り、あらためて声をかける。 「……おい……」 「なんだ?」 「消えたって……どういう……」 「俺に聞いてるのか?」  そう言われても、ほかの誰に聞けというのだろう。ここには、彼しかいないのだから。  むすりと言葉を失ったとたんに、大輔の言い訳じみた言葉が続く。 「あとで|律《りっ》|泉《せん》に聞けよ。……何しろ、俺にはなんにも見えなかった[#「なんにも見えなかった」に傍点]んだから……。とにかく、あいつは消えたって言ったんだ」  竜憲は肩で息を|吐《は》いた。もっともといえば、もっともな話である。実際のところ、こうして自分を|気《き》|遣《づか》っていてくれるだけでも、珍しいのだ。 「……それで、俺はどれくらい、ぶっ倒れてた?」 「さぁ、たいしたこっちゃないぞ。……三十秒もたってないと思うが……」 「そんなもんか」  ぼそりと|呟《つぶや》き、|弾《はず》みをつけて立ち上がる。  ずいぶんと時間がたっているような気もしたが、言われてみればたしかにそんなものだろうと思う。  変わっていることといえば、それこそあの恐ろしげな|気《け》|配《はい》が消えたことくらいだ。  身体のほうも、わずかに頭の|芯《しん》が|疼《うず》くくらいで支障はない。 「ホントに|大丈夫《だいじょうぶ》か?」 「……どこもちゃんと動くみたいだ」  にっと笑ってみせた竜憲の腕を、大輔が捕らえる。 「平気だって……」  それでも、腕を放そうとはせずに、大輔は小さく|溜《た》め|息《いき》を吐いた。 「ぜんぜん……だな。わかってるのか? お前、まっすぐ立ってないんだぞ」 「|嘘《うそ》……だろ」 「嘘じゃない。——そうでなきゃ、なんで俺がお前を支えてやるもんか」 「あ……そう」  応じながらも自覚がない。自分としては、まっすぐに立っているつもりなのだ。 「いったい、何があったんだ?」 「何って……。言ったって信じないんだろ? それより、あんたにはどう見えたの? そのほうが興味あるな」  瞬間、目を|眇《すが》めた大輔は、指先で|顳※[#「※」は「需」+「頁」Unicode="#986c"]《こめかみ》のあたりを|掻《か》いた。 「何って言われてもな。お前が|真《しん》|言《ごん》|唱《とな》えてて、倒れた……くらいかな」  ずいぶんと正直な答えである。何やかやと|詭《き》|弁《べん》を弄して、|煙《けむ》に巻くのが常なのだ。恐ろしく奇妙なものを見たような気になって、竜憲は腹の底で笑っていた。  もっとも、顔にはそんなことはおくびにも出さずに、情けない顔をしてみせる。 「マジかよ。あんな|露《ろ》|骨《こつ》に攻撃されたのははじめてなんだけどな」  何やら考え込んでいる大輔の顔を盗み見て、竜憲は|密《ひそ》かに笑っていた。  何が楽しいのか、自分でも妙だと思うのだが、大輔が困った顔をするのがおかしい。どうやら、本当に支障がないと思っているのは自分だけのようだ。  不意に大輔の視線が、自分に|注《そそ》がれる。  |慌《あわ》てて、笑いを飲み込んだ竜憲は、見開いた目で相手を見返した。 「——そういえば、お前が|真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》え始めるまえに、何もないところに土煙が上がった……かな」  竜憲は吹き出しそうになるのを必死に|堪《こら》え、大輔の腕にわずかばかり体重を預けた。 「あ……ほんとだ。世の中が回り始めた」 「おい……いまさら……」  本当のところ、自分がふらついていることを自覚し始めていた。自覚できれば、ぶざまに倒れることもないだろう。  どうにか、立っているふりをしながら、大輔をちろりと見やる。 「あんたさぁ、倉の中調べてこない?」 「べつに構わんが……」 「その……鏡とやら見てみたいじゃない」 「しかし……」 「あ、俺は|大丈夫《だいじょうぶ》。ここで待ってるから。——それとも……」  |濁《にご》したそのあとに続く言葉を見抜いたのだろう。鼻先で笑った大輔は、不意に竜憲の腕を放した。 「動けるなら|母《おも》|屋《や》に行ってろ。……律泉がお茶くらいご|馳《ち》|走《そう》してくれるだろう」 「……そうする」  あっさり応じた竜憲を残し、大輔が倉に向かって歩き出す。  手近の太い竹に寄りかかり、その後ろ姿を見送った。普段どおりに、少しばかり背を丸めて|飄々《ひょうひょう》と歩いていくのを見ていると、心底|悪霊《あくりょう》など信じていないというのがよくわかる。  相手の正体がまったくわからないままというのは、どうにも落ち着かない。あの男なら、沙弥子の見落とした物でも、見つけ出してくるだろう。信じる信じないはともかく、彼の|好《こう》|奇《き》|心《しん》と|探求心《たんきゅうしん》は果てしないのだ。そのうえ、見事な意地っ張りときている。自分を|納《なっ》|得《とく》させる何かを見つけるまでは、いつまででも|粘《ねば》るだろう。  何より彼なら、何も起こらないはずだ。  情けない話だが、体調に問題がなくとも、いますぐあの倉に入る勇気がない。ここで待っているのも、いやなくらいだ。時間がたてばたつほど、|魔《ま》|物《もの》の気に包まれた一瞬に感じた|安《あん》|堵《ど》が恐ろしい。今度はそのまま引き込まれて、二度と目覚めぬ気がするのである。  大輔の背が何事もなく倉の中に消えたのを見届け、竜憲は深い息を|吐《は》いた。 「リョウちゃん! 平気なの?」  高い声が、頭に響く。 「お……サコ。どうだった家のほうは……」 「誰も気づいてないみたい。オフクロなんて、いま帰ったの、だって」  すっかり、動揺は消えたらしく、いつもどおりの言葉がぽんぽんと返ってくる。四歳年上のはずの自分に向かって、|未《いま》だにリョウちゃん[#「リョウちゃん」に傍点]なのには|閉《へい》|口《こう》するが、そんな気分になれるということは、自分のほうもずいぶんと落ち着いてきた証拠だろう。  つまらぬことで自分の正気を確認すると、竜憲は可能なかぎりのんびりとした|口調《くちょう》で応じてみせた。 「そうか……、しかしこれからどうしような」 「そうよね。消えたっていったって、ここからいなくなっただけだしね。——鏡に帰ったとも思えないし……。それともリョウちゃん、そんな|手《て》|応《ごた》えあった?」  首を横に振った竜憲に、顔をしかめてみせた沙弥子は、声を落として言葉を続ける。 「やっぱり、オヤジさんに言うしかないのかな」  目の前からいなくなると、すぐこれだ。この性格が、この騒ぎを引き起こしたという自覚があるのかと思うと、頭が痛い。 「……まぁな。ほっとくわけにはいかんだろ?」 「……仕方がないか」  ぽつりと|呟《つぶや》いた沙弥子は、不意に顔を上げると、竜憲の顔を|覗《のぞ》き込み、にっこりと笑った。 「なんだよ」 「一緒に頼んでくれるよね」 「そりゃ、まぁ……乗りかかった船だし……」 「よかった!」  飛びつかんばかりの勢いで喜ばれると、それなりに気分のよいものだ。もっとも、そんなことを思うから、毎度毎度、大輔や沙弥子にいいように使われるのだろうが。  といって、後悔しているわけではなかった。持って生まれた|性分《しょうぶん》なのだから仕方がない。それくらいに思っているのが、幸せである。 「ところで、リョウちゃん……」  妙に幸せな気分を、沙弥子の|真面目《ま じ め》な声が壊す。 「ん?」 「姉崎先輩は?」 「大輔? ……ああ、あれなら倉の中を調べに……」 「|嘘《うそ》でしょ!」  とたんに沙弥子の声が舞い上がる。 「嘘じゃない。そんなことで嘘つい……」 「倉の中にあの|化《ば》け|物《もの》がいたらどうすんのよ!」 「|大丈夫《だいじょうぶ》だって……。あいつには|悪《あく》|魔《ま》だろうが、神さんだろうが、猫の子一匹だって|取《と》り|憑《つ》かないよ。——だいいち、|気《け》|配《はい》はまったく消えちゃったんだから。あれだけの気があるんだ。倉に|潜《ひそ》んでるならわかるはずだろ?」 「それなら……いいけど」  不安げな声の調子が、何より|露《ろ》|骨《こつ》に彼女の心情を|露《ろ》|呈《てい》している。  この反応だけは、どうにも腹立たしい。この場でふらついている自分よりも、あの|頑丈《がんじょう》な男を心配するのだから。 「そんなに心配なら見てこいよ。いまごろ、元気に倉中をひっくり返してるぜ、きっと」  少々意地悪な気分で付け足す。  |眉《まゆ》|尻《じり》を引き上げた沙弥子に、|明《あ》け|透《す》けな|笑《え》みを返すと、竜憲は竹から背を引き|剥《は》がした。 「ちょっと|様《よう》|子《す》を見てくる。……お茶とケーキなんか用意しててくれると|嬉《うれ》しいな」 「わかったわよ」  ようやく少しだけ、表情を|和《やわ》らげた沙弥子に手を振ると、竜憲は倉に足を向けた。     第二章 |妖《よう》|魔《ま》目覚める      1  満天の星が、|凍《い》てついた空に|瞬《またた》きもせずに座っている。昼間の雪のせいか、空気が澄み渡り、星の数が格段に多い。  ぞくっと背を|震《ふる》わせた|大《だい》|輔《すけ》は、厚手のカーテンを閉めた。  星になど興味を持ったことはないが、今夜は妙に空が気になったのだ。  本当に|魔《ま》|物《もの》がいたのか。  |竜憲《りょうけん》や|沙《さ》|弥《や》|子《こ》の態度は、魔物が存在したことを示している。自分の目で見ないものを信じないというほど、|傲《ごう》|慢《まん》にはできていない。  しかし、自分だけが見えないものがあると認めるよりは、思い込みや演技と思ったほうが気が休まるのだ。あの二人が、なんの利益もないのに、演技するとは信じがたいが。 「……そこが問題だよな……」  ぽつりと|呟《つぶや》いた大輔は、|狭《せま》い室内を見回した。  古い屋敷の、二十畳はあるかという竜憲の部屋に比べれば、情けなくなるほど狭い。しかも、普通のサイズのものでは足りない彼に合わせて、特大のベッドが居座っているからなおさらだ。  その大きなベッドの上に投げ出されたコートは、奇妙な形をとっている。  |盆《ぼん》を包んだような丸。  実際、コートの中には、鏡が包まれていた。  鏡といっても、何も|映《うつ》さないもの。いわゆる銅鏡というやつだ。  |磨《みが》き込めば少しは光るかもしれないが、|緑青《ろくしょう》が浮いた円形の銅製品は、そうとは知らなければ鏡と評する者もいないだろう。  沙弥子が|封《ふう》|印《いん》を|解《と》いてしまったという鏡の隣に、|転《ころ》がっていたものである。問題の鏡とは違って、こちらは木の支柱が|腐《くさ》ってしまったらしく、|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に|床《ゆか》に投げ出されていた。  どうして持ち出してしまったのか、自分でもわからなかったが、大輔は誰にも知られないように、コートの中に隠して運んだのだ。  ちろりと|唇《くちびる》を|舐《な》め、コートに手をかける。  |慎重《しんちょう》に、封印らしき紙片を|剥《は》がさないようにコートを剥がしていく。  と、そこには|赤銅色《しゃくどういろ》に輝く鏡があった。 「……なん……だと?」  |妖《よう》|怪《かい》|変《へん》|化《げ》の|類《たぐい》はいっさい信じないが、これには驚くしかない。  万が一、倉の中で|見《み》|間《ま》|違《ちが》えたとしても、この輝きは普通ではなかった。  つい先日、|磨《みが》かれたばかりと言ってもいい。しかも、|封《ふう》|印《いん》も真新しいものになっているのだ。  |掠《かす》れた口笛を吹き、鏡を|覗《のぞ》き込む。  手品だとしても、|拍《はく》|手《しゅ》|喝《かっ》|采《さい》を贈ってやっていい。  銅鏡は、たしかに鏡の役割も果たしていたのだろう。普通の鏡に慣れた目には、たいして役立つとも思えなかったが、|執《しつ》|拗《よう》に磨かれた鏡面は、|己《おのれ》の顔を|映《うつ》し出していた。  恐る恐る手を伸ばして、鏡に触れてみる。  さすがに、封印を|剥《は》がす気にはならなかったが、かといってそこまで特殊な品だとも思えない。|唯《ゆい》|一《いつ》価値を認めるとすれば、周囲に|彫《ほ》り込まれた模様だろう。  |獅《し》|子《し》らしい|獣《けもの》と、ガルーダとしか言いようがない、鳥と人間のキマイラ。それを取り巻く|唐《から》|草《くさ》|模《も》|様《よう》も、精巧なものだ。  鏡が変化した理由はともかく、ここまではっきりと観察できるのなら、それはそれでありがたい。理由など、あとで考えればよいことだ。 「……これが、何か意味があるのかね……」  なんと言っても、一度じっくり見てみたかった、というのが|本《ほん》|音《ね》だ。竜憲に教えてしまえば、厳重に箱詰めして、父親に渡してしまうだろう。  そうなってからでは、見ることもできなくなると、わかりきっていた。  何しろ、ただの日本人形を、三重四重の箱に納めて、|護《ご》|符《ふ》だとかいうみみずののたくったような字を書いた紙を、べたべたと|貼《は》り付けるような男なのだ。  黒目がちの、|綺《き》|麗《れい》な|市《いち》|松《まつ》人形を女の部屋まで引き取りに来させたのは自分だったが、まさか|大《だい》|道《どう》|寺《じ》|忠《ただ》|利《のり》の前に|突《つ》き|据《す》えられるとは思ってもいなかった。  女とともに、神妙な顔でお|祓《はら》いを受けさせられた|挙《あ》げ|句《く》、古道具屋に持ってゆけばけっこうな値段がつくだろう人形を、もったいぶって取り上げられた。  感謝したのは女だけ。  しかも、彼女にとっての“命の恩人”は竜憲になった。  いま、思い返しても腹が立つ。  大輔が声をかけた女のなかでは、一、二を争う美人だったのだ。  それが竜憲に色目を使い、|一《ひと》|月《つき》がかりでお友達[#「お友達」に傍点]になった自分を、あっさりと知り合い[#「知り合い」に傍点]にまで格下げしてくれたのである。  だが、女の|誘《さそ》いは|完《かん》|璧《ぺき》に無視された。  あれだけの美女に興味を示さない竜憲の|性《せい》|癖《へき》を疑いはしたものの、自信たっぷりに迫った女が振られたのは、気持ちがよかった。  そういえば、竜憲が興味を示すのは、|一《いっ》|風《ぷう》変わった女ばかりである。|幽《ゆう》|霊《れい》などと付き合える人間は、どこか変わっているのかもしれない。 「……しまった……」  |大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に|眉《まゆ》を寄せた大輔は、鏡にコートを|被《かぶ》せ、|慌《あわ》てて立ち上がった。  大道寺忠利の息子を紹介すると言った女に、連絡を取ることを忘れていた。何やらよからぬものに|取《と》り|憑《つ》かれているといって|怯《おび》える女は、真剣に連絡を待っているはずだ。  ステレオの上にのせた受話器を取り、胸のポケットから取り出したメモを|繰《く》る。 「……まずいな……まったく……」  いささか派手な事件のせいで、|肝《かん》|心《じん》なことを忘れていた。  コールを待つ間、スピーカーにのせた|煙草《た ば こ》を引き寄せ、目でライターを探す。しかし、ライターを発見するまえに、電話はつながった。 「……あ、|上《うえ》|田《だ》さんのお宅ですか? 夜分失礼いたします。|姉《あね》|崎《ざき》と申しますが、|美《み》|香《か》さんはご在宅でしょうか……」  自分の部屋にも電話はあると言っていたが、一応、事務的な声を出す。 「あ、はい。ゼミの連絡で……。すみません、遅くなってしまいまして……」  娘とそっくりな声を出す母親に、余計な|探《さぐ》りを入れられないために、声の演技力を|発《はっ》|揮《き》する。 「そうですか。……わかりました。あ、|大丈夫《だいじょうぶ》です。|小《お》|野《の》さんのお宅なら、わかりますから……。はい。……はい。……いえ、どうも失礼しました……」  受話器を置いた大輔は、ようやく見つけたライターに手を伸ばした。テープ・デッキとスピーカーの間に、落ちていたのだ。  再びメモをめくりながら、煙草に火を|点《つ》ける。  自分の部屋の壁から、黒い影が出てくるといった女は、連絡を待ちきれずに友人の家に避難したらしい。小野というのは、大輔に女を紹介したゼミの友人だった。 「……もしもし、小野……」  耳もとで女が悲鳴に近い声を上げる。 「悪かった……。竜憲と会ってたんだが、あいつ、いまとんでもないヤツに|係《かか》わっててさ。……ああ、大丈夫。ちゃんと|退《たい》|治《じ》したよ。えらい大昔のバケモノが|封《ふう》じられてた倉があってさ……。ああ……。すげえ疲れてるみたいだから、二、三日は無理かもしれないが……。大丈夫だって。……そう。いざとなりゃ、オヤジさんに頼んでもらうよ。……二、三日はそっちに泊めてやれるんだろう?」  煙草をふかしながら、世話好きの女の|繰《く》り|言《ごと》を聞き流す。  本人が見たわけでもないのに、高校時代からの親友の災難[#「災難」に傍点]をひどく心配しているのだ。自分なら、真っ先に相手の精神状態を疑うだろうが、オカルト好きのこの女はそのまま信用しているようだった。 「……わかったって……。とにかく、もう少し待ってくれよ。すごく疲れてるみたいなんだ。今日のなんか、普通じゃなくってさ……」  その場に立ち会っていたにもかかわらず、何があったのかはまったく知らないのだが、テレビの怪奇特集でやっていた|除《じょ》|霊《れい》のシーンを思い浮かべて、適当に話をでっちあげる。 「そう。……それで、まともに歩けないぐらいだったんだ。……|大丈夫《だいじょうぶ》だって。二、三日休めば、きっと……。ああ。だから、泊めてやれよ。いいんだろ?」  竜憲を心配しながらも、親友のほうが大事なのだ。当たり前と言えばそれまでだが、部屋に帰らないかぎり、問題はないとわかっているのに、いつまでも|愚《ぐ》|痴《ち》を聞かされていると|辟《へき》|易《えき》してくる。  しかも、大輔の目当ての娘は電話口には出ないのだ。  この女の口から自分をあしざまに言われないように、せいぜい気を|遣《つか》っていたが、それも限界に近い。こんな女が相談相手では、余計に不安が増大するだけだろう。  相手を気遣っていることを示すために、ことを|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》にするタイプなのである。 「……とにかく、できるだけやるから……それじゃな」  電話を切り上げた大輔は、|天井《てんじょう》を|仰《あお》いで息を|吐《は》いた。  少しばかり、竜憲に対する罪悪感が|湧《わ》いてくる。  |幽《ゆう》|霊《れい》騒ぎが本当だとしても、あんな依頼人では気の毒だ。もっとも、被害者のほうはおとなしい|控《ひか》えめな女だった。 「……幽霊だのなんだの言って……。頭がおかしいんじゃないのか……」  その相手に、自分が気があるということは|棚《たな》に上げて、大輔は再び息を吐いた。  短くなった|煙草《た ば こ》を灰皿でもみ消し、ベッドに歩み寄る。  妙な魔法[#「魔法」に傍点]を見せてくれた鏡をコートごと取り上げて、机の上にのせると、そのままベッドに倒れ込んだ。  超常現象が好きだという人間の気がしれない。  本当に|怖《こわ》がっている人間はともかく、たいていはそれを聞かされたまわりのほうが騒ぎ立てるのだ。  よほど、ほかに楽しみがない連中に違いない。 「……まったく……」  大きな|欠伸《あ く び》をもらした大輔は、机の上のコートが、ゆっくりと動いていることには気づいていなかった。  心臓の|鼓《こ》|動《どう》のように、ゆったりと上下するそれは、徐々に動きを速めてゆき、唐突に、ぴたりとやんだ。  ばさりと音をたててコートが落ちる。 「……あ?」  腕を振って、その反動で起き上がった大輔は、鏡に目を留めて|頬《ほお》を引きつらせた。  鏡は|鮮《あざ》やかな緑色。  |緑青《ろくしょう》に|塗《まみ》れた銅鏡は、いまにも|崩《くず》れそうな|護《ご》|符《ふ》をのせたまま、机の上にあった。 「……なんなんだか……。ボケたかな……」  こちらのほうが正しい[#「正しい」に傍点]。  ならば先ほど見た、|赤銅色《しゃくどういろ》に輝く真新しい鏡はなんだったのだろう。 「……くそ……」  誰にともなく|罵《ののし》った大輔は、古びた鏡にコートを掛け直して、再びベッドに|転《ころ》がった。      2  小さな虫が、うぞうぞと足もとを|這《は》い回っている。  ベッドの上も、壁も、机の上だろうが本だろうが、ところかまわず無数に。  |吐《は》き|気《け》を|催《もよお》す。  それが、実体がないとわかっていても、無数の小さな虫という姿は、|嫌《けん》|悪《お》|感《かん》を|掻《か》き立てずにはいない。  |唇《くちびる》を|噛《か》んだ|竜憲《りょうけん》は、息を吐くと同時に右手を打ち振った。  瞬間、虫が消える。  |呪《じゅ》|文《もん》の一つを|唱《とな》えるでもなく、ただ人の気を当ててやるだけで、消え去るような|矮小《わいしょう》な|化《ば》け|物《もの》。  だが、気を抜くと、いつのまにか部屋は連中に占拠された。  意思も何もない連中。ただ、生きていたという記憶が、そこいらじゅうに影を落としているだけなのだ。そうわかっていても、けっして気持ちのよいものではない。  竜憲は、眠ることもできずに、ただ部屋で立ちつくしていた。  昼間の戦いのせいで、頭の|芯《しん》が|痺《しび》れるほど疲れている。しかし、この小さな|化《ば》け|物《もの》のただ中で眠る気にはなれなかった。  どこへ逃げても同じ。  連中は竜憲がいる場所でぞろぞろと|湧《わ》いて出るのだ。  ほかの誰にも、父親の弟子である|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》たちにさえ、それは見えないらしい。  |大《だい》|輔《すけ》が帰った直後から、この現象は始まっていた。 「……あいつは歩く|護《ご》|符《ふ》だからな……」  よほど明確な意思を持った強いものでなければ、大輔に近づくことはできない。考えようによっては、竜憲よりよほど有能な霊能者なのだ。  ただし、彼が|魔《ま》|物《もの》を寄せつけないだけで、追い払うわけでも、消滅させるわけでもない。お守りがわりに持ち歩くには、あまりにもかさばる|代《しろ》|物《もの》でもある。  小さく、竜憲は笑った。  単純な解決法を思いついたのだ。  大輔の家に押しかけて、|奴《やつ》のそばにいればよい。  あまりぞっとしないが、眠るにはそれしかないのではないか、と思い始める。  とにかく眠い。  こうして立っていても、上体がゆらゆらと揺れているのが、わかるほどだ。  思考力がどこかへ消えてしまっている。なぜこんなものが迷い出たのか、考えることすらできないのだ。 「……くそぉ……」  頭を強く振った竜憲は、ようやくもう一人の|護《ご》|符《ふ》を思い出した。  母親である。  何かの|祟《たた》りだの、何かが|取《と》り|憑《つ》いたなどといわれる|怪《あや》しげな品が、倉に山積みになっている家に、平然と嫁入りするような女だ。大輔と違って、|霊《れい》の存在を信じないわけでもない。どちらかといえば、自分が見られないことを|面《おも》|白《しろ》くないと思っているような女だった。 「……仕方ないか……」  ふらりと足を踏み出す。  と、足もとに奇妙な感覚がある。  いつのまにか、またしても小さな虫は部屋に満ちていた。  |吐《は》き|気《け》が込み上げる。  それをどうにか|抑《おさ》えて、手を打ち振ると、あっけなく虫たちは消え失せた。  力と言えるほどのものを使う必要がないあたりが、余計に腹立たしい。しかし、|退《たい》|治《じ》するのは、いまの自分には無理だった。  壁に取りすがるようにして、部屋を出た竜憲は、母親の寝室に向かっていった。  悪夢にうなされた子供でもあるまいし、眠れないからと母親を頼るのは、気が進まない。だが、他人の家に押しかけて、眠らせてくれと泣きつくよりはましだろう。  それが、大輔だと思うとなおさらだ。  こんなことで頼った日には、|奴《やつ》が|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》のマネージャーに変身するのは目に見えていた。それでなくても、妙な依頼を勝手に引き受けて、苦労させられているのに、これ以上|馬《ば》|鹿《か》|馬《ば》|鹿《か》しい話に付き合わされるのは、ご免だった。  ふらふらと、|廊《ろう》|下《か》を歩く竜憲は、何度か手を打ち振って、|飽《あ》きもせずに|湧《わ》き出す虫たちを払い続ける。  ようやく母親の部屋に|辿《たど》り着いたころには、少しは眠気が晴れていた。 「……かあさん……」 「どうしたの?」  すぐに声が返る。まだ起きていたようだ。 「いいかな……」 「なあに、変な子ね……」  ふすまが開けられ、|掻《か》い|巻《ま》きを着込んだ母親が姿を見せた。 「寒くないの。そんな格好で……。とにかく入りなさい。どうしたのよ……」  記憶にあるかぎり|歳《とし》を取らない母親がふすまを大きく開ける。  和室に不似合いなたっぷりとした|羽《はね》|布《ぶ》|団《とん》から、電気毛布のコードが伸びていた。そういえば、今夜はやけに寒かったのだ。  だが、いまはそんな感覚さえない。  頭を占めるのは、眠りたいというその一念だけだった。 「サコに呼ばれて、出かけたよね……」 「ええ。|沙《さ》|弥《や》|子《こ》ちゃんが、何かしたって……。|忠《ただ》|利《のり》さんが帰ってらしたら、相談するって言ってたでしょ」  結婚して二十年以上。|未《いま》だに夫を名前で呼ぶ女は、押し入れから|掻《か》い|巻《ま》きを取り出した。 「……これでも着て……。で、どうしたの」 「……ちょっと|頑《がん》|張《ば》ったら……。ボケてる間に、妙なものが|取《と》り|憑《つ》いたらしい。……とにかく疲れてて……。気を抜くと、うぞうぞ現れやがる……眠い……」  説明にならない説明をした竜憲が、引き寄せられるように母親の布団にもぐり込む。  と、たちまちのうちに寝息を立て始めた。  |呆《あき》れ顔でそれを|眺《なが》めた女は、苦笑を浮かべて新たな布団を取り出した。  もうずいぶんと昔に、同じことがあったのを思い出したのだ。  まだ二十代前半だった忠利が、同じことを言って夜中に彼女の部屋を訪れたのである。プロポーズにしては妙な言葉だと思っていたが、現実は|霊《れい》を近寄せない彼女の、|結《けっ》|界《かい》の中で眠りたいというだけだった。  それから結婚まで、数年の時間があったが、ただ眠るためだけに、忠利は何度か彼女と寝室をともにした。  苦笑を浮かべて、息子の寝顔を|眺《なが》める。  枕もとのライトに照らし出された顔は、まだまだ子供。  それでも、母親を頼るのは情けない。  ちゃんとした[#「ちゃんとした」に傍点]相手を|捜《さが》すように言わなければ、と思いながら、女はライトに手を伸ばした。      3 「……何も見ることもできない私が|忠《ただ》|利《のり》さんと結婚したのは、そういう理由だったのよ」  朝食の皿を並べながら、|真《ま》|紀《き》|子《こ》は息子に笑いかけた。 「……知らなかった。|怖《こわ》がらないからだとばっかり思っていた」  寝足りて、すっきりとした顔で、|竜憲《りょうけん》は母親の顔を見上げていた。  あれだけ|突《とっ》|飛《ぴ》なことをしたのに、この女はまったく動揺していない。それどころか、朝から聞かされるのは、母親と同じ能力を持った女を|捜《さが》せ、という説教だった。 「だからね、リョウちゃん。どんな力があっても、自分がひどく疲れた時は、自分も守れないのよ。忠利さんでもそうなのよ。……特に、若い頃は力のコントロールができないのね。力を使い切っちゃって、猫でも|怖《こわ》いって言ってらしたわ」  思い出し笑いをする母親を、|呆《あき》れ顔で|眺《なが》めた竜憲は、|味《み》|噌《そ》|汁《しる》に口をつけた。  説教なのか|惚《のろ》|気《け》なのかわからない。  五十も過ぎて、|惚《ほ》れていることを息子の前でも隠さない父親に、似合いの女だ。 「……ひょっとして、俺が目が覚めるまでいてくれたのは、そういう理由?」 「そうよ。だって、私はどうしてそうなるのかわからないのよ。私がいることが問題なら、そうするしかないでしょ?」  正月の|新《あら》|巻《ま》き|鮭《ざけ》を冷凍しておいて、|未《いま》だに食卓に上らせる普通の主婦は、まったく普通の感覚で|霊能力者《れいのうりょくしゃ》たちと付き合っているのだ。  主婦業だけは|完《かん》|璧《ぺき》にこなしていると自慢する母親は、何より有能な父親の援護者でもあるらしい。 「……心当たりはないの? 何も見えない[#「何も見えない」に傍点]女の子」 「男ならいるけどね」 「まあ。それは少し悲しくない? ……あなたが男の子が好きだっていうなら別だけど」  目を見開いた竜憲は、母親の顔をつくづくと眺めた。  何を考えているか、まったくわからない。 「……息子がホモでも平気なのか?」 「霊に|取《と》り|憑《つ》かれて変になっちゃうよりは、いいわね。それはひどいことになるのよ。霊を|祓《はら》える力がある人が、力がなくなった時に取り憑かれると……。お|弟《で》|子《し》さんのなかにも一人いたのよ。……わかっていれば、守ってあげられたのにね……」  ほっと息を|吐《は》いた女は、悲しげに首を振った。  どうも、この女は現実から遊離しているらしいと、知ってはいたが、ここまでとは思いもしなかった。さすがにあの父親[#「あの父親」に傍点]を亭主に選んだだけのことはある。  |溜《た》め|息《いき》を|吐《は》いた竜憲は、食事を片づけにかかった。 「リョウちゃんも、そんなことがあるなら、|真面目《ま じ め》に修行なさいね。あなたがどう思っていても、向こうの方[#「向こうの方」に傍点]はあなたみたいな人に向かってくるのよ。特に、力が強い方はそうらしいから、ぼんやりしていたら、取り返しのつかないことになってよ」  恐ろしいことを平然と|宣《のたま》う母親に、いい加減に|頷《うなず》いてみせた竜憲は、音をたてて|味《み》|噌《そ》|汁《しる》を飲みほした。  向こうの方[#「向こうの方」に傍点]の動向を確かめなければならない。  父親が家にいないのはいつものことだし、気にも留めていなかったが、いま、いないという事実が、重く立ちふさがっている。  口だけではなく、本当に手に負えないようなものが出てくれば、大道寺忠利[#「大道寺忠利」に傍点]に頼る気だったのだ。 「|親《おや》|父《じ》は? いつごろ帰ってくるのかな」 「さあ。急いで出かけてらしたから、特別なご用なんでしょうね。……今日帰られるか、一月かかるか……。私にはわからないわ」  誰にもわからないことだ。  相手が何か、それを確かめるのに何か月もかかることもある。  竜憲のほうは、いきなり|実《じっ》|践《せん》訓練というところだ。 「連絡があったら、どこにいるか聞いといてよ」  くすりと笑った女は、手を差し出した。 「ごはんのおかわりは?」 「いい」 「……そう長くはないと思うわよ。お弟子さんも一人しか|連《つ》れていっていないから……」 「……そう……。ごちそうさま」  |箸《はし》を置いた竜憲は、立ち上がりざまに茶を流し込んだ。 「お|行儀《ぎょうぎ》の悪い」  ひょいと首をすくめた竜憲は、そのまま食卓を離れた。  食堂の|扉《とびら》を閉めた瞬間、|目《め》|眩《まい》が襲う。 「……くっ……」  どうにか踏みとどまり、歯を食いしばって周囲を見回す。  子猫ほどのものが、視界を埋めつくしている。 「……|去《い》ね!」  口中で叫ぶ。  ざわざわと、|潮《しお》が引くようにそれ[#「それ」に傍点]は消えていった。  母親の力を実感する。  彼女と同じ部屋にいるかぎり、日常があるのだ。しかし、一歩外に出てしまえば、そこは|化《ば》け|物《もの》の|渦《うず》となっていた。  母親の目の届くかぎりの場所、というのが、彼女の力の質を教えてくれる。  単に、彼女の目に入らないように、力は発揮されているのだ。  極度に自己防衛的な力。  だからこそ、強力であり、どんな相手にも通じるのだろうが、なんの解決にもならない。相手を打ち|砕《くだ》くことも、|封《ふう》じることもできないのだ。  ただ単に、相手がそこを|避《さ》けているだけ。  敵として認識されてもいないのだろう。 「……サコ……まさか……」  突然、自分に近い能力を持った少女のことを思い出す。  昨夜は眠いだけで、自分に起こったことが、|沙《さ》|弥《や》|子《こ》にも起こりうるという可能性すら気づかなかった。昨日の騒ぎが|係《かか》わっているのなら、あり得ることである。  気が強いくせに虫だけは、|蚊《か》の一匹でも悲鳴を上げる少女は、あんなものを見たら気絶してしまうだろう。だから、連絡を寄こさなかったのかもしれない。  |慌《あわ》てて、居間に飛び込んだ竜憲は、電話を取り上げた。  もどかしげに番号を押し、|苛《いら》|々《いら》とコールを待つ。 『もしもし、|律《りっ》|泉《せん》です』 「サコ? ……|大丈夫《だいじょうぶ》か?」 『え? 大丈夫って……何が? あ、オヤジのこと? ……大丈夫、大丈夫。おじさんに頼むってリョウちゃんが言ってたって言ったら、もう真っ青になっちゃってさ。そんな大変なことになったのかって、ビビってやんの。|鍵《かぎ》をしまい忘れたの、オヤジみたいよ』  明るい声が、彼女のまわりが|平《へい》|穏《おん》だと教えてくれる。  ほっと息を|吐《は》いた竜憲は、視界の|隅《すみ》を走った影を指で払った。 「……そうか。よかった……」 『心配してくれた? ありがと。でもオヤジはマジだよ。……そんなこと信じないと思ってたのにさ。|魔《ま》|物《もの》なんて|馬《ば》|鹿《か》|馬《ば》|鹿《か》しいとかって、|怒《ど》|鳴《な》られる|覚《かく》|悟《ご》だったのにね。リョウちゃんは大丈夫? 昨日すごく顔色が悪かったでしょ』 「……ああ。ゆっくり寝たから、もう大丈夫。……それより、学校は?」  突然、今日が平日だということを思い出す。  自分から電話をかけておいて聞くのも妙だが、大学生と違って、自主休講というのも難しいはずだ。 『だから、オヤジがマジだって言ったでしょ? おじさんに見てもらうまでは、心配だから、とにかく今日は家にいろって。なんか、おばさんと一緒にいたほうがいいとかなんとか、変なことも言ってたけど……』  どうやら、沙弥子の父親は真紀子の力を知っているらしい。  父親同士、年齢が近く代々の|親《しん》|戚《せき》付き合いをしているのだから、知っていても|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》はなかったが、あらためて他人から言われると、妙な気がする。 「……そうだな。そのほうがいいだろう。サコ、英語が|苦《にが》|手《て》だったよな。ついでに見てもらえばいいよ。まだ覚えてるみたいだし……」 『うーん……そうね。家にいてもオヤジがうっとうしいし……』 「|親《おや》|父《じ》さん、会社は?」 『休んじゃった。|化《ば》け|物《もの》が怖いから、会社を休むなんて、普通の人が聞いたら、どう思うだろうね……』  |舌《した》を出している顔が思い浮かぶ。  竜憲は|密《ひそ》かに息を|吐《は》いた。何も見えないくせにすべてを受け入れてしまう母親と、見るだけは見るくせに社会的通念の中で生きている沙弥子。どちらにしても、|一《ひと》|筋《すじ》|縄《なわ》ではいかない女たちだ。  その精神の|丈夫《じょうぶ》さが|羨《うらや》ましい。 『どうしたの? リョウちゃん……』 「え……あ。なんでもない。——で、来るのか? だったら、かあさんに言っとくけど」 『そうだなぁ。……行くことになったら電話する。ほっとくとこっちは|大《おお》|事《ごと》になっちゃいそうだし……』  ——もう、充分大事だ! ——  電話口に叫ぶ代わりに、心の中で|喚《わめ》く。 『おじさんは? いつ帰るの?』 「かあさんも知らないらしいんだ。……まったく、|大《だい》|事《じ》な時にいやがらねぇ」  電話の向こうに忍び笑いが聞こえる。 「なんだよ」 『いないほうがすっきりするって言ってるじゃない、いつもは……』 「それでいいわけ? サコは……」 『そんなこと言ってないでしょ!』  この分なら、放っておいても大丈夫だ。彼女はどうすればよいかわかっている。いざとなれば、すぐにでもここにやってくるだろう。  どうやら、いまのところいちばん問題なのは自分らしい。  目の前にちらつく黒い影を、|忌《い》ま|忌《い》ましげに|睨《にら》み|据《す》えた竜憲は、声だけはのんびりと沙弥子を|宥《なだ》める。 「——|捕《つか》まえたら、何をおいても行かせるよ」 『ありがと。オヤジにもそう言っとく』 「それから……。いいか? 何かあったら、ここへ来いよ。かあさんには出かけるなって頼んどくから」 『よろしく。……ホントに、ゴメンね』  妙に|殊勝《しゅしょう》な声が、ご|愛嬌《あいきょう》だ。  これ以上聞いていても、仕方がない。要は彼女が無事なことを確認できればよいのだ。 「気にするなよ。……ウチの|親《おや》|父《じ》はそれが商売なんだからさ。——じゃ、親父さんによろしくな」  簡単に応じて、電話を切る。  電話に気を取られている間に、居間は|有《う》|象《ぞう》|無《む》|象《ぞう》の|雑《ざつ》|霊《れい》の山になっていた。昨夜よりまだひどい。ただの虫のように見えるものから、犬猫の大きさのものまで。なかには人のようなものまでいる。  ゆっくり眠って、回復したはずなのにこのざまだ。  ソファーの|陰《かげ》に|蹲《うずくま》った影を|睨《にら》みつけた竜憲は、そのソファーにどさりと腰を落とした。  きりがない。  こんなことをしていたのでは、それだけでまいってしまう。  こんなことは初めてだ。  昨夜は単に疲れているからだろうと思っていたのだが、それだけではないはずなのである。だからこそ、沙弥子の様子を聞いたのだが、どうやら彼女はなんともないらしい。  いったいどうなっているのだろう。  考えたところで答えは出そうにない。何しろ、|唯《ゆい》|一《いつ》思い当たるのが、昨日の倉の化け物なのだから。  不意にインターフォンが鳴る。  びくりと背をすくめた竜憲が、電話の切り替えに指を伸ばすと同時に、どこかで電話が取られた。  母親だろう。  竜憲はぐったりとソファーに背を預けた。  と、今度は内線のベルが鳴る。  道場のほうならともかく、自宅のほうには自分と母親しかいない。ということは、どう考えても、やってきたのは自分の客なのだろう。わざわざ訪ねてくる人間を一人だけ思い浮かべて、竜憲は電話に飛びついた。  |護《ご》|符《ふ》が向こうからやってきたようだ。少々情けないが、母親にくっついているよりはましに違いない。 『リョウちゃん……』 「居間にいるから……」  皆まで聞かずに、そう応じる。 『はいはい』  ぷつりと応答が切り替わり、声が聞こえなくなる。  部屋のぐるりを見渡し、ほくそ|笑《え》む。  一瞬に、部屋の中がすっきりと片づいた。  が、満足げに笑った竜憲の視界の隅を、小さな黒い影が|掠《かす》める。 「……お前ら、いつまでもここにいられると思うなよ」  ぶつぶつと|呟《つぶや》いたものの、なかなか情けない強がりだ。  背に腹は代えられないといったところか。  |廊《ろう》|下《か》で人の話し声が聞こえた。  やがて、足音が居間の前で止まり、背後の|扉《とびら》がゆっくりと引き開けられる。  そのとたん——。部屋じゅうにぞわぞわと|屯《たむろ》していた影の|類《たぐい》が、音をたてて四方に逃げる。悲鳴のような騒ぎ声まで聞こえるのが、|小《こ》|気《き》|味《み》よい。 「おい、リョウ……。くたばってんだって?」  からかっているのは明白なのだが、今日ばかりはその声が頼もしく思えた。 「ま……ね。どうせ、信じないんだろうけどさ」  ソファーの背に頭を預け、来訪者の顔を見上げる。  歩く|護《ご》|符《ふ》は、|訝《いぶか》しげに竜憲を|眺《なが》め下ろした。 「なんだよ。……何かいいことでもあったか?」 「ぜんぜん!」  にこやかに応じた竜憲を眺め、大輔はますます|眉《まゆ》をしかめた。 「気色悪いな。……まったく」  口の中で呟いた大輔は、ソファーの背を大きく回ると、竜憲の正面に座った。腕に抱えたコートを脇に置き、竜憲の顔を正面から見つめる。 「で、調子はどう?」 「調子……ねぇ。——最悪」 「そうか……」  ぼそりと応じた大輔を、まじまじと眺める。  そのまま|黙《だま》り込んだ大輔は、テーブルを見つめて無言を押し通した。いつまで待っても口を開こうとしない。  いい加減に待つのに|飽《あ》きた竜憲は、しかたなく自分のほうから口を開いた。 「……あんた、用があったんじゃないの?」 「え?」  大輔がようやく顔を上げる。 「それとも見舞いにきたのかな」 「いや」  あっさりと応じた大輔が、コートを引き寄せる。 「やっぱり……」  片目を|眇《すが》めた竜憲を見もせずに、大輔はコートの間を|探《さぐ》っている。  息を|吐《は》き、竜憲は彼の言葉を待った。  ややあって、布に包まれたものを取り出した彼が、それをテーブルの上に静かに置き、小さく首をすくめてみせる。 「なんだよ……」  しばし間を置いて、大輔は答えた。 「|律《りっ》|泉《せん》のとこの倉から持ち出した」 「は?」 「倉にあったもんだ」 「なんだって?」 「倉にあった……」  大輔は言葉を途切れさせ、包みに手を伸ばす。  ごくりと息を|呑《の》んだ竜憲の目の前で、布の端が持ち上げられ、その中から|緑青《ろくしょう》の|塊《かたまり》が現れた。  それがいかに古いものであるかは、一目でわかる。それも鏡だ。 「おい……おい」  目を見開き、鏡と大輔を交互に見た。 「律泉の言ってた鏡とは別のもんだ」 「どういう……」 「|対《つい》の鏡……だと思う」 「なんで言わなかった?」 「なんで? いまにもぶっ倒れそうなお前に、なんて言うんだ? ……だいたい、車の運転なんて、卒検以来初めてなんだぜ。そんなこと言う|暇《ひま》はなかっただろう?」  自慢にもならないことを、|偉《えら》そうに言い切った大輔は、鏡をゆっくりと持ち上げた。  鏡同様、いまにも|塵《ちり》になりそうな恐ろしく古い|護《ご》|符《ふ》が、鏡の中央に|貼《は》りつけてある。  その|札《ふだ》を竜憲は穴が|空《あ》くほど見つめた。  何も感じない。  ゆっくりと手を伸ばし、かすかに触れてみる。  同じだった。  大輔が沙弥子のところから持ち帰った|紙《かみ》|屑《くず》にも、あれだけの強い気があったのだ。これから何も感じられないというのは、いかにもおかしい。 「何かした?」  静かに首を横に振る大輔を、疑わしげに|眺《なが》めた竜憲は、あらためて鏡に手を伸ばした。 「どう思う?」  どうと聞かれても、答えようがないのだろう。大輔の問いに|曖《あい》|昧《まい》に|頷《うなず》いてみせると、竜憲は鏡を手に取り、しげしげと眺めた。  その様子を見るとはなしに眺めながら、大輔はもてあまし気味の足を組み、ソファーの背に身体を預けた。 「妙な|気《け》|配《はい》があるのか?」  さらに問いかけても答えはない。何を聞いても答えはないと判断すると、大輔は勝手に状況の説明を始めた。 「律泉が|封《ふう》|印《いん》を|解《と》いたとかいう鏡は、倉の奥の祭壇に……だと思うんだが……置いてあったんだ。もちろん|曇《くも》ってはいたが、これほどひどい状態じゃなかったし、祭ってあるっていう感じだったな。——で、こいつは、その横に|転《ころ》がっていた。……台座の……|鏡架《きょうか》とでもいうのかな、それの木が|腐《くさ》ってて……」  口を|噤《つぐ》んで、竜憲の様子を|窺《うかが》う。 「それで……?」  一応聞いてはいたのだろう。竜憲が先を|促《うなが》した。 「あ……ああ。——それでだな。大きさも形も似ていたし、|対《つい》じゃないかと……」 「そうだろうな」 「だろう?」  とたんに竜憲が、視線を上げる。 「違うだろ? 聞きたいのは、なんでそれがここにあるかだ」 「え……ああ……」 「なんだってこんなものを……」  竜憲が鏡を置き、大輔を|睨《にら》む。  組んだ足を解いて身を乗り出した大輔は、しごく|真面目《ま じ め》な顔をつくって、竜憲を見返した。 「……それが、よくわからないんだ」 「なんだと」 「だから、覚えてない。……気づいたら部屋にあった。……見つけた時のことはよく覚えているんだがな。……いまさら、なんだが。今度ばかりは俺も困っているんだ」  うさんくさげに自分を見る視線が、竜憲の心情を|露《ろ》|骨《こつ》に教えてくれる。だが、この言葉を|撤《てっ》|回《かい》するつもりはない。何しろ、半分は本当なのだ。少々の脚色はあるが。 「ま、言い訳はしないよ」 「……何、居直ってんだよ。どうせ、あんたのことだもの、興味があったんじゃないの。それこそ、いまさら言ってもしようがないけどさ」  答える代わりに、|眉《まゆ》を引き上げてみせた大輔は、再び足を組み直した。  どういうわけか知らないが、今日の竜憲は|寛《かん》|容《よう》である。いつもなら、こんなことを告白しようものなら、いつまででも|文《もん》|句《く》を並べ立てているはずなのだ。たしかに、その文句さえ聞いてやれば、ちゃんと頼んだことは引き受けてくれるのだが、ここまであっさり引き下がられると、どうも勝手が違う。  小さく|咳《せき》|払《ばら》いをした大輔は、あらためて竜憲を見やった。 「やっぱり、こいつも関係あるんだろう?」  鏡を|顎《あご》で示す大輔に、竜憲はゆっくりと首を振った。 「わからない」 「わからない?」 「そういうこと。……この|封《ふう》|印《いん》を|剥《は》がせばわかるのかもしれないけどな」 「それはちょっと……やめといたほうが……」  いくら信じないとはいっても、とりあえずは止める。実のところ封印を剥がして何が起こるのか、この目で確かめたい気もするのだが、昨日の騒ぎのあとだ。いくらなんでも、|言《こと》|葉《ば》|尻《じり》を捕らえて|煽《あお》る気にはならない。 「だろ?」  |片《かた》|眉《まゆ》を引き上げてみせた竜憲が、音をたててソファーに背を預けた。 「返しに行くか? 律泉とこに……」 「それより、一晩これと一緒にいたんだろ? 何か変わったことはなかったのかよ」 「変わったこと……か」  もちろんあった。この鏡が|磨《みが》き立てたように見えたというのは、誰に言っても変わったことだろう。  だが……。 「……なかったな」  |嘘《うそ》をついた。 「そうか」  素直にその嘘を信じる竜憲を、ちらりと見やった大輔は、コートのポケットを|探《さぐ》り、|煙草《た ば こ》を取り出した。  少々後ろめたい気がする。 「これは、俺が預かるよ」  不意に竜憲が言う。 「ああ……頼む」 「しかたないだろ」 「すまんな」  竜憲は首をすくめた。 「……それはそうと……。あんたが言ってた……なんだっけ? 部屋が|怪《あや》しいから来てくれ、とか言ってただろう? 行かなくていいのか?」 「珍しいこともあるもんだな。……心境の変化か?」 「昨日、|不《ぶ》|様《ざま》な|真《ま》|似《ね》を見せたしな。まあ、それぐらいつきあうさ」  本当は竜憲はこの、|有《う》|象《ぞう》|無《む》|象《ぞう》の|化《ば》け|物《もの》たちを遠ざけてくれる|護《ご》|符《ふ》に、一緒にいてもらいたいだけなのだ。ある程度以上の力を持つものは、大輔のことなど無視して出現するが、数が限られているだけに、対処のしようもある。 「……じゃ、電話を貸してくれるか?」 「ああ」  |喜《き》|々《き》として電話に手を伸ばす大輔を|眺《なが》めながら、こんな男に頼らなければならなくなった自分を、|哀《あわ》れに思う。何より情けない。  女が相手だと、どこまでも甘い男だ。ただし、それは彼が女と認めた相手に限られていたが。  沙弥子などは、|未《いま》だに後輩から一歩も進歩できないのだ。彼女にとっては、姉崎先輩[#「姉崎先輩」に傍点]は明らかに特別なのに。  喜ぶべきか。  当人にはまったく自覚はないが、大輔は確実に|恋敵《こいがたき》だ。本人に自覚のない恋敵。  それを頼るのはいかにも|悔《くや》しいが、この際仕方がない。 「……わかった。じゃ、明日にしよう……。ああ、こっちはそれでいい……」  電話を切る大輔は、ひょいと|眉《まゆ》を上げて首をすくめてみせた。 「|掃《そう》|除《じ》してないから、明日がいいとさ」 「だから、言っただろう? ……たいしたことじゃないって……」 「……言えてるかもな……。けど、|美《み》|香《か》は本気で|怯《おび》えているからな。いま、家にいないんだよ。|小《お》|野《の》の家に泊まり込んでいるんだ。お前が見てやれば、気が済むっていうんなら、やってやればいいだろ?」  興味のある女は名前で、そうでなければ|名字《みょうじ》で呼ぶ、といういたって直情的な反応を見せてくれる男を、うっそりと眺める。  気が進まない仕事が先送りになったのはいいが、|護《ご》|符《ふ》と一緒にいる口実がなくなってしまった。 「……じゃあ、これから律泉ん|家《ち》に行かないか?」  思いがけず、護符のほうから同行を求められる。 「え?」 「この鏡の正体を聞くなら、律泉に聞くのが一番じゃないのか? お前の能力に頼るだけってのも……」  そんな能力の存在自体を疑っている男は、ひどく現実的なことを話す。だが、いちばん簡単な方法でもあった。 「珍しいな、あんたがここまで興味を持つとは……。何かあったんじゃないか?」 「俺に? ……何も見えないって|馬《ば》|鹿《か》にしてるくせに……」  微苦笑を浮かべた竜憲は、いい加減に|頷《うなず》くと腰を上げた。 「ちょうどいい。……今日はサコの|親《おや》|父《じ》さんは家にいるそうだしな……」  |片《かた》|眉《まゆ》をそびやかした大輔が小さく笑う。 「……まさか娘が心配だからっていうんじゃないだろうな……」 「その、まさか、だ。平気なのはあんたぐらいだよ」  ドアに手を掛けた竜憲は、大輔が近づくのを待って、引き開けた。     第三章 予 兆      1  何度も通った道だが、|何故《な ぜ》か足もとが|粘《ねば》りつくような気がする。疲れているといえばそれまでだが、大地自体が自分を押しとどめようとしているようだ。  時折感じる、|漠《ばく》|然《ぜん》とした敵意でもない。かといって、気のせいではないことはたしかだった。 “|護《ご》|符《ふ》”の|大《だい》|輔《すけ》がすぐ隣を歩いているのに、これほどの異常があるのは、敵の力が|見《み》|縊《くび》ってよいものではないという証拠としか思えなかった。 「何かあるのか?」  |着《き》|膨《ぶく》れの熊が両手をポケットに突っ込み、さらに首をすくめてちまちまと歩いている。普通に上るだけでも息が上がる坂だが、ところどころが|凍《こお》っているために、さらに難所になっていた。  何度か|滑《すべ》りそうになりながらも、どうにか体勢を保っている大輔は、|訝《いぶか》しげに|竜憲《りょうけん》の足もとを見やった。  竜憲のほうは、滑るどころか足が持ち上がらないのだ。|傍《はた》|目《め》にもわかるほど動きがおかしいとすれば、|沙《さ》|弥《や》|子《こ》の家に近寄らせまいとするものの力も知れる。 「……さすがに、今度ばかりはあんたでも見ることができるかもしれないな……。ちょっと、マジに強い……」  時代がかった門が見えるようになったあたりから、竜憲の足はますます重くなっていた。一歩ごと、|太《ふと》|腿《もも》に力を入れて引き上げないと、靴底は大地にへばりついているのだ。  |舗《ほ》|装《そう》したばかりのアスファルト道路を歩いているような気分になる。  そのくせ、冷気は身体の|芯《しん》まで|染《し》み|込《こ》む。  これだけ苦労して歩いているのだから、汗が出ても|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》ではないのに、体温はいっこうに上がらない。  坂道で苦労しているのは大輔も同じだが、彼のほうは身体が|温《あたた》まらないことを疑問に思っていないようだった。 「……妙だと思わないのか?」  つい、|皮《ひ》|肉《にく》の一つも言ってみたくなる。超常現象を信じないのは勝手だが、現実に起こった事実まで無視するというのは、|承服《しょうふく》できない。  普段は理論家を気取っているくせに、こういう時は突然、偶然を持ち出すのだ。 「この坂を上って、汗の一つも出てないだろ」 「お前もだろうが。それだけ寒いってことだ……」  まるで気にも留めずに言い放つ男をちろりと見上げ、竜憲は深い息を|吐《は》いた。  こんな|護《ご》|符《ふ》に頼らなければならない自分が|嘆《なげ》かわしい。  彼が超常現象だと決めた[#「決めた」に傍点]ものは、けっしてその周囲では現れないのだ。体験自体をなかったことにしてしまうのだから、何もないと言い切るのも当然だろう。  たしかに、相手を見る[#「見る」に傍点]ことはできなかったが、竜憲が傷を負おうと、立ち木が真っ二つに|裂《さ》けようと、偶然という言葉で片づけてしまう男だった。 「……あの、門の上にいるものは、見えるか?」 「門の上?」  寒そうに|縮《ちぢ》めていた首を伸ばし、言われた先に目をやった大輔は、再びコートの|襟《えり》に|顎《あご》を|埋《うず》めた。 「何も……。|瓦《かわら》が|霜《しも》で白くなってるってんなら見えるが。……それだけだな」  霜で白くなって、と、理由づけしてしまうあたりが、大輔なのだろう。陽が当たる瓦に、いつまでも霜が残っている|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》には、目をつぶるつもりのようだ。  竜憲は、重い足を引き上げながら、門の上に視線を|据《す》えていた。  真っ白な|獣《けもの》。  大型の犬ほどの大きさがあるが、顔は|鼬《いたち》である。何か言いたいことでもあるのか、先ほどから竜憲の動きを見守っていた。  吐く息がきらきらと輝き、瓦に落ちる。  敵意がないことはわかるのだが、護符を連れているにもかかわらず、姿を見せるあたり、それなりの力を持っているのだろう。 「……何かいるんか? ……だよな。そんな聞き方をするってことは……」 「信じてないくせに……。あんたが信じないのはわかっているよ」 「そうでもないぞ。少しは信じる気になっている。……ただ……何も見えないのは同じだけどな。|律《りっ》|泉《せん》とお前……まったく同じ方向を見ていたし。二人が示し合わせたっていうより、俺には何があったって見えないってことだろう。……もっとも……」 「そいつらが人間に何かしでかすってのが信じられないって言いたいんだろう?」  ひょいと|眉《まゆ》を上げた大輔は、その|拍子《ひょうし》に足を|滑《すべ》らせ、|慌《あわ》ててポケットから手を出した。 「……えらい遠いな……。こんなに遠かったか? ……門が見えてから……」  口をつぐんだ大輔は、腰を伸ばすようにして、つくづくと竜憲を|見《み》|据《す》えた。 「……まさか……」 「そのまさかさ。見えなくても影響はあるってことだろ。|狐《きつね》や|狸《たぬき》に|化《ば》かされたってわけじゃないが……。とにかくちっとも前に進まない。それだけだ」 「それだけだと?」 「ああ。それだけ。時間はかかるが、少しずつ、前に進んでいるからな」  鼻に|皺《しわ》を寄せた大輔が、これみよがしに|溜《た》め|息《いき》を|吐《は》く。  彼にしてみれば、心理的な|錯《さっ》|覚《かく》で時間経過が遅い、と思いたかったのだろう。  だが、現実に二人は普段の三倍もの距離を歩いていた。  どうやら、沙弥子の父親に会わせたくないらしい。倉に|封《ふう》じられていた|魔《ま》|物《もの》の正体がわかっては困るということだろうか。  だとすれば、沙弥子の家を訪ねたのは正解だったということだろう。 「|化《ば》け|物《もの》ね……。それが本当なら、そいつはお前に正体を明かしたくないらしいな」  同じ結論に達した大輔が、前|屈《かが》みになって足を速めた。  |呆《あき》れるほどゆっくりと、門が近づいてくる。  左右の林に目をやれば普通に進んでいるように思えるのだが、正面の門ばかりが遠い。そこだけフィルムを引き伸ばしているようだった。 「|大丈夫《だいじょうぶ》……なのか」  息が上がっている竜憲を、|半《なか》ば同情のこもった顔で|眺《なが》め下ろす。いっこうに近づかない門に、さすがの大輔も不安を覚えているらしい。 「ま……そのうち|辿《たど》り着くさ」  竜憲は無理に笑ってみせた。 「|馬《ば》|鹿《か》言ってるな。……お前のことだよ」 「俺? 大丈夫だよ。……まったく|根性《こんじょう》悪いったら……」  自分でも情けないほど、ただ歩くために苦労しているのだ。どんな顔をしてみせたところで、|信憑性《しんぴょうせい》のないことこのうえない。  しかし、この奇妙な妨害に抵抗するうちに、どうも倉から|解《と》き放たれたものの力とは種類が違うような気がし始めていた。  門の上に陣取った白い|妖《よう》|怪《かい》を、ちらりと見やる。  あれが原因だろうか。  そんな気がする。  ——誰だ? お前は……——  ためらいがちに問いかける。  何も答えはなかったが、代わりに|訝《いぶか》しげに頭を|傾《かし》げた妖怪は、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》に優しげな目で竜憲を見つめた。その目の色から、答えを導きだすこともできない。自分の力が足りないのか、意思の|疎《そ》|通《つう》が不可能な相手なのか、そのあたりはわからないが。  小さく首を振り、足もとに視線を戻した竜憲は、再び重い自分の足と闘い始めた。  ——何をしにきた? ——  不意に頭の中に声が響く。  |慌《あわ》てて門の上を振り|仰《あお》いだ竜憲に、さらなる言葉[#「言葉」に傍点]が投げられる。  ——もう、ここには用はないはずだ—— 「お前か?」  思わず|呟《つぶや》いた竜憲に、大輔が反射的に応じる。 「何が?」  言っておいて、|怪《け》|訝《げん》な顔をする。おくればせながら、竜憲が自分ではなく、門の上を見つめていることに気づいたからだ。 「あんたじゃない」 「……のようだな……」  首をすくめた大輔は、無視をきめ込んだ。  ——踏み込んではならぬ—— 「なんだと!」  半分は|自棄《や け》だった。この際どう見られようと、知ったことではない。  |案《あん》の|定《じょう》、|怒《ど》|鳴《な》り|据《す》えた竜憲を、目を|剥《む》いた大輔が盗み見る。 「なんの権利があって!」  ——……私はこの家を|護《まも》るもの——  思わぬ答えが返り、竜憲は目を|瞬《しばたた》かせた。  ——|約定《やくじょう》により、律泉の一族を守護するもの—— 「……律泉の……|式《しき》|神《がみ》……?」  口の中で呟いた竜憲を、大輔が今度は|遠《えん》|慮《りょ》なく|凝視《ぎょうし》する。 「どうして、俺たちを……」  ——この家に|仇《あだ》なすものを通すわけにはいかぬ—— 「仇だって? 俺は|大《だい》|道《どう》|寺《じ》だぞ。……律泉とは……」  ——|去《い》ね! ——  そう断じた|妖《よう》|怪《かい》の|形相《ぎょうそう》が、瞬間で変化した。  優しげな目が奇妙な色を帯びて輝き、閉じられた口が大きく引き|裂《さ》ける。足にかかる圧力が、さらに増したようだ。  竜憲が歯を食いしばり、|呻《うめ》く。  両肩にまで、異様な圧力がかかっていた。 「……くそう! ふざけるなよ!」  食いしばった歯の間から|漏《も》れる|圧《お》し殺した|罵《ば》|声《せい》も、単なる|負《ま》け|惜《お》しみでしかない。何しろ、一歩も動けないのだ。  それどころか、全身が押し|潰《つぶ》されそうだ。 「大輔……あんた先に……」  ようやくに、それだけ言うと、すべての努力を|放《ほう》|棄《き》する。  と、同時に、全身にかかる圧力が消え失せた。 「あ……」 「先に行けって、お前……」  困り顔で見下ろす大輔を、竜憲はきょとんと見上げた。それから、両手を持ち上げ、確かめるように|掌《てのひら》と|甲《こう》を交互に|眺《なが》める。 「なんだ、今度は……」 「進まなければ……いいわけか……」 「何?」  片目を|眇《すが》めた大輔に、力なく笑い返す。 「……話を聞くだけだろう? あんた、一人で行ってきなよ」 「俺が行ってどうするんだよ。俺には何も見えないし、聞こえないんだぞ」 「相手は沙弥子の|親《おや》|父《じ》さんだ。人間が相手なら、あんたのほうが得意だろう」 「そりゃ……いいが……」  |眉《まゆ》を寄せた大輔は、自分の身体を眺める竜憲をつくづくと見下ろした。何かと会話[#「会話」に傍点]をしていたのはわかるが、それがなんなのかとなると、まるで|見《けん》|当《とう》もつかない。  シキガミとやらが竜憲に敵対しているらしいことだけはわかったが、なんの手出しもできないのは、いままでどおりだ。 「ちょっと……俺はあとから行くわ。|説《せっ》|得《とく》できれば……」 「説得、ね。……まあいい」 「あ、それから。話が聞けたら、サコを連れ出してくれ」 「あ?」  足を踏み出した大輔が、|訝《いぶか》しげな顔で振り返る。 「サコの親父さんも、わかっているから。お袋に英語を習うんだよ」 「なるほどね。……ここにいるよか、お前ん|家《ち》が安全ってことか? ……わかったよ。とにかく、倉の中身のことを聞いて、律泉を連れてくりゃいいんだな」 「そういうことだ」  |大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に肩をすくめた大輔は、ひどく歩きづらそうに坂道を上り始めた。  がっしりとした背中を丸めて、寒そうにしている姿は妙に|滑《こっ》|稽《けい》だ。竜憲を拒絶するために|張《は》り|巡《めぐ》らされた|結《けっ》|界《かい》は、大輔にまで影響を与えている。  律泉の家と|約定《やくじょう》を結んだという|式《しき》|神《がみ》は、よほど力が強いようだ。  もっとも、千年もの間、律泉家を|護《まも》り続けているのだとすれば、それなりの力は持っていて当たり前だった。  その式神ですら、倉に|封《ふう》じこめられた|魔《ま》|物《もの》を倒すことはできなかったのか。あるいは、倉の魔物が|解《と》き放たれたために姿を現したのか。  突然、かっと目を見開いた竜憲は、門の上に|踞《うずくま》る白い|妖《よう》|怪《かい》を|見《み》|据《す》えた。  どうしたことか、大輔を|睨《にら》み据える妖怪は、|己《おのれ》の力が通じないことに|苛《いら》|立《だ》っているようだった。  竜憲の仲間だと思ったのか、大輔が門を|潜《くぐ》るのも許せないらしい。 「……|式《しき》|神《がみ》。大道寺の者を追い返すには、それなりの理由があるはず。|何故《な ぜ》だ?」  問いかけに答えようともせず、妖怪は大輔に|牙《きば》を|剥《む》いている。  いまにも襲いかかりそうな勢いだが、いまのところ門の上に留まっていた。 「式神!」  一歩踏み出す。  くるりとこちらを振り向いた妖怪は、牙を剥き出して|威《い》|嚇《かく》した。 「何故だ! 答えろ!」  ——|去《い》ね。ここには何もない——  |頑《かたく》なな拒絶に、疑問が|湧《わ》き起こる。 「……俺に……あの、|化《ば》け|物《もの》が|取《と》り|憑《つ》いた……のか?」  それしか考えようがない。  いままで、律泉家の式神など見たこともなかったのだ。律泉と大道寺の関係からいっても、拒絶される|謂《いわ》れはない。昨日も、なんの問題もなかった。  昨日と今日の違いは何か。  たしかに、|有《う》|象《ぞう》|無《む》|象《ぞう》の化け物がまわりに見え隠れするが、それも人に影響するほどのものではない。  答えは一つに思える。 「式神。答えろ!」  ——去ね。二度とここには近づくな——  大輔と竜憲を見比べ、竜憲のほうがより大きな|禍《わざわい》だと決めた妖怪は、まっすぐに竜憲を見据えていた。 「答えてくれ。……そうすれば、二度とここには立ち入らない」  ——そなたが何者か、忘れたとでも言うか—— 「そうだ。大道寺竜憲でなければ、なんなんだ!」  ——神、だ。そなたはそう言っておったではないか——  |皮《ひ》|肉《にく》な|口調《くちょう》。  |自《みずか》らを神と名乗るほどのものが、竜憲に取り憑いたとでもいうのだろうか。彼自身には、そんな自覚はない。  いままでにも、何度か意識を乗っ取られそうになったことはある。しかし、己の身体を支配しようとする意識というものは、恐ろしく不快で、けっして無視できるものではないのだ。  |何故《な ぜ》、なんの違和感もないのか。  思い当たることはいくらでもあったが、自分がいちばん納得できない。自分の中のどこかに、あの|化《ば》け|物《もの》が息を|潜《ひそ》めているのではないかと思うと、背筋が|粟《あわ》|立《だ》った。  何より、化け物に触れた時に感じた、妙な|懐《なつ》かしさが、|忌《い》まわしい。あの瞬間に、化け物は竜憲の内に深く入り込んだのだろう。  いまになって、|式《しき》|神《がみ》が何を拒絶しているのか実感できる。  ——ようやっと気づいたか? ——  声[#「声」に傍点]に、振り返った竜憲は、黒い影に気づいて顔を|歪《ゆが》めた。  |護《ご》|符《ふ》がいなくなったとたんに、これだ。  坂道には、足の踏み場もないほど|妖《よう》|怪《かい》が|蠢《うごめ》いている。虫ほどの大きさのものから、人間の倍ほどもある巨大な影まで。  竜憲に声をかけたのは、その大きな影だった。  ——|早《はよ》う! 早う! いつまでわしらを待たせる気じゃ! ——  こいつらは、竜憲の中に潜むものを待っているのだ。化け物たちの|首《しゅ》|魁《かい》が、竜憲の中に入り込んだに違いない。  長年、倉に|封《ふう》じられていた首領が解放されたことを知り、こうしてまわりに|集《たか》って|蘇《よみがえ》る瞬間を待っているのだろう。 「貴様ら……」  |頬《ほお》を引きつらせて、片目を|眇《すが》めた竜憲が、口中で|真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》える。  ——|無《む》|駄《だ》じゃ! 無駄じゃ! わしらを|祓《はろ》うても、なんにもならぬわ——  いつのまにか、|頬《ほお》が血に|濡《ぬ》れている。  倉の前で、|魔《ま》|物《もの》に切り裂かれた頬は、針で突いたほどの傷も残さずに消えていたが、突然、思い出したように血を|噴《ふ》き出した。  ——お方の|牲《にえ》じゃ。お方が目覚められたのよ! ——  |顎《あご》を伝う血が、|滴《したた》り落ちる。  真言に押されて、一瞬引いた|物《もの》の|怪《け》たちがざわざわと血に集まってきた。  歓喜が押し寄せてくる。  人間の血を求める化け物など、そうそういない。契約の|象徴《しょうちょう》としての血なら、意味があるが、連中には|餌《えさ》にもならないのだ。  だが、竜憲の血には、別の意味があるらしい。わずかばかりの血に群がる化け物は、先を争うようにして、血を|舐《な》め取ろうとしていた。 「……消えろ! 貴様ら!」  かっと体温が上がる。  打ち払うように振った手先から|閃《せん》|光《こう》が|迸《ほとばし》り、|化《ば》け|物《もの》の山が一瞬にして灰となった。  妙に毒々しい血に、灰が吸い込まれる。 「これが理由か! こいつらが……。こいつらが律泉の家に|禍《わざわい》をもたらすのか!」  門の上で、竜憲を|見《み》|据《す》える|妖《よう》|怪《かい》が、にやりと笑う。  ——そなたじゃ。そなたが|仇《あだ》をなす。……いまはまだよし。だが、それも長くはなかろう。あれが目覚めれば、そなたこそが仇をなす—— 「目覚めれば、だと?」  倉に|封《ふう》じられていた|魔《ま》|物《もの》は、竜憲の中で眠っているというのか。それとも、竜憲の意識を食い尽くすことを目覚めるというのだろうか。 「あれはなんなんだ! 俺が食われるのを待っているのか! それはいつだ! いつまで俺は俺でいられる!」  |真《しん》|摯《し》な目を向ける竜憲に、律泉の|式《しき》|神《がみ》はもう何も答えようとはしなかった。  律泉の家を、その血筋を|護《まも》るために約定を交わした妖怪は、竜憲が近寄らないかぎり危険はないと決めている。  竜憲が化け物に食われようが、殺されようが、|奴《やつ》には関係がないのだ。 「……くそ……」  周囲を見渡す。  追い払っても、打ち殺しても、いくらでも|湧《わ》いて出る|物《もの》の|怪《け》たちが、またもや足もとに押し寄せていた。  血に群がるのも同じ。  やはり、この|魍《もう》|鬼《き》どもにとって、竜憲の血は何か特別な意味があるのだ。  再び、右腕が光を発する。  何に対しての怒りか、自分でもわからないが、力を|抑《おさ》えようもなかった。うぞうぞと足もとに集まる物の怪たちが、光に触れて|弾《はじ》け飛ぶ。  自分に危害を加えられる連中ではないのだ。|退《しりぞ》けようと思えば、退けることもできたし、いままでならそうしていた。  たとえ普通の生命ではないにしても、無益に命を|絶《た》つことはないと思っていたのである。  しかし、腹の底から湧き上がるような怒りは止めようもなく、右手が青い|燐《りん》|光《こう》を放ち続けていた。 「……くそ……」  誰にともなく|罵《ののし》り、右腕を押さえる。  |鼓《こ》|動《どう》に呼応するように光を放つ腕は、地を|這《は》う物の怪たちを|虐殺《ぎゃくさつ》し続けた。 「リョウ! どうした?」  大輔の声だ。  その声が届くと同時に、|潮《しお》が引くように物の怪たちがいなくなった。 「腕をどうかしたのか?」 「ちょっとな……」  右腕は、相変わらず光を放っているが、大輔の目には見えないらしい。 「リョウちゃん。どうしたの……その手……」  大輔の後ろから現れた沙弥子は、目を丸くして竜憲を見つめていた。 「何か現れたの?」 「ちょっとな……」  |曖《あい》|昧《まい》に笑うと、コートのポケットに手を突っ込む。  相変わらず、腕は光を放っている。敵が消えてしまったのだから、もう|治《おさ》まってもいいはずなのに、彼の身体は|未《いま》だに臨戦状態にあるのだ。  |破《は》|魔《ま》の力を自分では|制《せい》|御《ぎょ》できないことはわかっている。  だからこそ、軽々しく|除《じょ》|霊《れい》を引き受けたりしなかったのだ。怒りが、あるいは恐怖が、勝手に魔物を打ち破るのである。  だが、敵が消えたあとまで、右腕が光を保っているのは、初めてだった。 「話は帰ってからにしよう。……|親《おや》|父《じ》を|捕《つか》まえたいしな……」  何かがあった[#「何かがあった」に傍点]と、沙弥子だけはわかっているようだ。こくりと|頷《うなず》いた沙弥子は、大輔の腕を|促《うなが》すように引き、竜憲の横に来た。 「……本当に|大丈夫《だいじょうぶ》?」  見上げる顔には、不安がくっきりと|刻《きざ》まれている。 「大丈夫、と言いたいところだが、どうやら、親父の手を借りるしかないみたいだ。クソ親父が捕まればの話だがな」  にんまりと笑う竜憲に、沙弥子はほっと息を|吐《は》いた。  何があったのか、沙弥子にもわかっていないのだ。倉に|封《ふう》じられていた|化《ば》け|物《もの》に|取《と》り|憑《つ》かれたなどと、言えるはずもない。  沙弥子は自分も始終|霊《れい》や|物《もの》の|怪《け》の|類《たぐい》を見るだけに、竜憲が物の怪と戦ったと知っても、驚きはしなかった。 「じゃあ、早く帰ったほうがいいわね。|姉《あね》|崎《ざき》先輩、いいでしょ?」  ひょいと|眉《まゆ》を上げた大輔は、疑い深い目で、竜憲を|見《み》|据《す》えていた。  竜憲の異変を見ることはできないくせに、その反応で何かあったと知ったらしい。さすがに、沙弥子の前で疑問を口にすることはなかったが、家に帰れば質問責めをかくごしたほうがよさそうだった。 「……とにかく……とっとと帰ろう」  なるべく軽く言い放つ。  ちらりと振り返った門の屋根には、|未《いま》だに|式《しき》|神《がみ》が座っている。  律泉の血筋の者を|護《まも》ると言っていたが、沙弥子が自らの意思で竜憲に従うことには、反対できないらしい。  それでも、鼻先に|皺《しわ》を寄せて低く|唸《うな》る|妖《よう》|怪《かい》は、できるかぎりの抵抗を示しているようだった。      2  妙な音がする。  ベッドの|隅《すみ》のほうで、がさがさと音をたてているのだ。見なくても、何がいるのかは|見《けん》|当《とう》がつく。 「うるさいぞ! 静かにしろ!」  腹立ち|紛《まぎ》れに|怒《ど》|鳴《な》ると、毛布を頭から|被《かぶ》る。  この数日、いつも何かが付きまとっていた。しかも、|得《え》|体《たい》のしれない虫やら、小さな|獣《けもの》の形を借りた|魍魎《もうりょう》が、もっと|曖《あい》|昧《まい》|模《も》|糊《こ》としたものに変わっている。  ただ姿を持たない代わりに、明確な意思が感じられる。いや、敵意といったほうが正確だろう。|隙《すき》があれぱ、襲いかかってきそうな|気《け》|配《はい》がある。もっとも、気配だけで実際に襲われたことはないのだが。  幸いなことに、|律《りっ》|泉《せん》の家の門前で起こったような騒動は持ち上がっていない。|大《だい》|道《どう》|寺《じ》|忠《ただ》|利《のり》のご|威《い》|光《こう》か、この家自体に特別な|結《けっ》|界《かい》でもあるのか、群がる|魑魅魍魎《ちみもうりょう》、|魘《えん》|鬼《き》の|類《たぐい》も、姿を現すのがせいぜいで、悪さはできないでいるらしい。  人間の感性というものは、存外いい加減にできているらしく、はじめは|蠢《うごめ》く小さな影にも感じていた|嫌《けん》|悪《お》|感《かん》が、日がたつにつれて薄れている。いちいち|係《かか》わっていたのでは、それこそ身が持たないというところだ。  虫が|這《は》い回ろうが、何かが耳もとでもごもごと|囁《ささや》き続けようが、無視することはできるようになった。思いのほか、|頑丈《がんじょう》な感性を持っていたわけだ。  |悟《さと》りを開いたというか、はっきりいえばどうでもよいのである。  とはいえ、現実に睡眠を|邪《じゃ》|魔《ま》されるのはたまらない。早いうちに、どうにかしたいのも確かだった。  それにもかかわらず、この状況に対処できる可能性のある、|唯《ゆい》|一《いつ》の人物がこの場にいないのだ。  実際、ここまで父親の帰りを待ちわびたことなど、生まれてこのかた初めてである。それこそ、二度と帰ってくるなと思ったことはあっても、一秒でも早く帰ってこいと念じたことなどない。  父親に頼るのは情けないなどとは、言っていられないのだ。  もぞもぞと動き回る|物《もの》の|怪《け》を足先で|蹴《け》り飛ばして、なんとか|平《へい》|穏《おん》を得ると、今度こそ何があろうと目を覚まさないと心に決め、枕に顔を|埋《うず》めた。  すると、今度は耳もとで、ぶつぶつと|呟《つぶや》く声が聞こえ始める。 『……待っておられるのか……』  不意に意味を持った言葉が耳に届く。  聞こえないと思い込もうとしても、なかなかに難しい。聞こえた気がするのではなく、物理的に耳に届いているらしいのだ。  これなら、大輔の耳にも聞こえるかもしれないなどと、|埒《らち》のないことを考えながら、知らず知らずに耳を澄ましていた。 『待たずとも世に|解《と》き放たれておりますぞ』  何が解き放されたというのだろう。 『……あなた様なら、捜すことも|造《ぞう》|作《さ》ありますまい』  誰を捜すのだ?  理由がわからない。  聞いてみたい気もしたが、それきり声が|掻《か》き消える。いざ聞きたいこととなると、|肝《かん》|心《じん》なところは知ることができない。まったく腹立たしいかぎりだ。  そのくせ、ここまで非常識な状況に|陥《おちい》りながら、奇妙に|好《こう》|奇《き》|心《しん》を掻き立てられるのも確かなのだ。  大輔の聞き出してきたかぎりの情報からすると、あの倉の鏡に|封《ふう》じられていたのは、その昔誰ぞに|取《と》り|憑《つ》いた|魔《ま》|物《もの》らしいのだが、それ以上のことはわからなかった。まして、それとともに倉にしまい込まれた鏡については、何もわからないといっても過言ではない。  それとも、こうして耳もとで|囁《ささや》く|妖《よう》|鬼《き》の声に耳を傾けていれば、いずれすべての|謎《なぞ》は|解《と》けるとでもいうのだろうか。  その結末を想像すると、ぞっとしない。  血に|集《つど》い、騒ぎ立てた|魍《もう》|鬼《き》たちは、たしかに自分を|生《い》け|贄《にえ》だと言ったのだ。謎が解けるということは、自分が訳のわからぬ魔物の|犠《ぎ》|牲《せい》になるということにほかならない。  これ以上考えていると、本当に神経を|患《わずら》いそうだ。  竜憲は枕を抱え込み、大きな|溜《た》め|息《いき》を|吐《は》いた。  やがて、ようやく睡魔という歓迎すべき魔物の手が、竜憲を押し包もうとし始めた頃、いたって現実的な雑音が、彼をこの世に引き戻した。  枕もとで電話の|耳《みみ》|障《ざわ》りな電子音が鳴り響く。どうやら、相手は男のようだ。 「なんだって……また」  口中で|罵《ののし》った竜憲は、しかたなくヘッド・ボードに手を伸ばした。  ついでに目覚まし時計を取り、時間を確認しながら、しごく|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な声で応じる。 「誰?」 『俺』  電話の向こうから、|素《そ》っ|気《け》ない返答が返る。  大輔だ。  時間はといえば、夜中の二時を回っている。眠りそびれたのを、どうにか寝つきかけたというのに、こんな時間に電話をしてくるなど非常識も|甚《はなは》だしい。  なんだか|無性《むしょう》に腹が立ってきた。 「どちらの俺でしょうか?」  ありがちな|揚《あ》げ|足《あし》を取って、どうにか|怒《ど》|鳴《な》りつけたい|衝動《しょうどう》を抑えると、答えを待つ。 『悪いな。夜中に……。寝てたのか?』 「当たり前だろ」 『すまん。……ちょっとばかりまずいことがあって』  妙に素直に|謝《あやま》られ、寝入りばなを|叩《たた》き起こされた怒りも|萎《な》えてしまう。  それでも、親身になる心境にまでは至れない。 「なんだよ。ついに、あんたんとこにも何か出たんか」 『いや、俺じゃないんだ』  つい、|無《ぶ》|愛《あい》|想《そう》になりがちな声にもかかわらず、大輔はひどく神妙に対応してくる。すくなくとも、声だけは。 「また、どっかの女?」 『女は当たりだ。……|美《み》|香《か》だけどな』 「おい、なんだよ、それ。見に行ったら気が済むって……」 『それが——』  言葉を|遮《さえぎ》っておきながら、続く言葉がない。 「……らしくないな。本当に何かあったわけ?」  美香といえば、霊が怖くて家出して[#「霊が怖くて家出して」に傍点]いた娘だ。  彼女の部屋を見に行ったのは、三日ほど前。律泉家の門前でさんざんな目にあった翌日だ。たしかに奇妙な|霊《れい》|気《き》が渦巻いていたが、たいしたことはなかった。  いま言われるまで、忘れていたくらいである。  それがいまさら、なんだというのだろう。 『火事にあってな。入院した』 「なんだって!?」 『火事のほうは|小火《ぼ や》だったらしいが……本人はちょっと……』 「マジ?」 『当たり前だ。こんな|冗談《じょうだん》、お前に言ってなんの得がある』 「悪い……。それで具合は?」 『まだ、わからん。さっき|小《お》|野《の》から電話があった』  そこまで聞いて、はたと我に返る。 「ちょっと待て……それでなんで俺のとこに……」 『それだ』 「だから……」 『妙なんだ』 「何が」 『彼女は|煙草《た ば こ》を吸わない』 「は?」 『いいから聞けって』 「そりゃ聞くけど……」 『とにかく、彼女は煙草を吸わない。だから、部屋に火の気はなかった』  煙草に伸ばしかけた手を止め、竜憲は身体を引き起こした。  どうやら、話は簡単に済みそうにない。|灯《あかり》もつけて、ヘッド・ボードに寄りかかった。  元々、|婉曲《えんきょく》にものを|喋《しゃべ》るのが大輔の悪い|癖《くせ》だが、今夜の場合は度が過ぎる。何しろ、話が少しも見えてこないのだ。 「ちょっと……いいか?」 『なんだ』 「——もう少し、話を整理してくれよ。俺には何がなんだか——。いいか、あんたの言ったこと順番に言うから、違ってたら言ってくれよ」 『ああ』 「彼女が入院したんだろ? 火事で」 『そうだ』 「でも火事そのものは|小火《ぼ や》だったわけだ」 『そう、ベッドの|布《ふ》|団《とん》が焼けただけ』 「それを聞きゃ、わかるぞ。……要するに、|煙草《た ば こ》を吸わない彼女の部屋で、|何故《な ぜ》か布団が燃えたってことか。それも、夜中に突然」 『そのとおりだ』 「そう言えよ。最初から」 『すまん……俺も少し|焦《あせ》ってて』  聞いたこともない言い訳に、竜憲は|不《ふ》|謹《きん》|慎《しん》にもほくそ|笑《え》んだ。  が、|慌《あわ》てて顔を引き締めた。  大輔に見えるはずもないのだが、さすがに気が引ける。仮にもうら若い娘が、入院するほどの|火傷《や け ど》を負ったのだ。  低く|咳《せき》|払《ばら》いをすると、声を落として続ける。 「いいけどさ。それで、あんたはどう思ってるわけ? 俺に電話してくるってことは……」 『あの部屋はどうだったんだ?』 「どうだった……って。べつにたいしたことは。——ちょっと過敏な娘だから、その辺のちょっとしたもの[#「ちょっとしたもの」に傍点]を拾ってきちゃっただけだったぜ。それは、俺が引っ張ってきちゃったし……」  言いかけて口をつぐむ。そうなのだ。いつもなら、それこそ|浄霊《じょうれい》の|真《ま》|似《ね》|事《ごと》をして、消してしまうのだが、あの時はそれができなかったのだ。ほかの雑霊同様、自分が引き受けるしかなかったのである。 『どういうことだ』 「どういうもクソも——あの部屋には何も残ってなかったはずだってこと!」 『しかしな。……突然布団が火を|噴《ふ》くなんざ、普通じゃないと思うだろう?』 「そりゃね。あんたまで普通じゃないって思うくらいだもんな」  しばらくの無言が返る。  やがて、大輔はゆっくりと口を開いた。 『自然発火するような素材だったのか、それとも電気毛布の|類《たぐい》のショートか。考えてみたんだが、どうしてもわからない。……すくなくとも、俺の見たかぎりでは、彼女は電気毛布は使っていなかったようだし、掛け布団はすくなくとも羽毛だった』 「おい、どうしてそこまで……」 『え? 一緒に行ったじゃないか俺も』 「そんなこたぁわかってるよ。俺が聞きたいのは——あぁ、もういいよ。で、俺に何が聞きたい」 『そんなことがありえるのか……だな』  一瞬絶句して、竜憲はきっぱりと答えた。 「知らん」  |溜《た》め|息《いき》が返ってくる。  それこそ、父親の得意な分野だ。竜憲には、現実にあったことだけで、相手の正体を|看《かん》|破《ぱ》するほどの知識もないし、火をおこすほど物理的[#「物理的」に傍点]な力を持った連中に出会ったこともない。  たいていが美香のように、|自《みずか》ら拾ってきたものに|怯《おび》えているか、力があっても悪い予感を|囁《ささや》くぐらいが関の山だった。|幻《まぼろし》の火を見せる手合いもいる。しかし、|火傷《や け ど》を負い、|布《ふ》|団《とん》が|焦《こ》げたとなれば、現実の現象だった。 「……悪いな……。見れば何かわかるとは思うが……。とにかく、俺が引き取ったのは、そんな|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》なものじゃなかった。親父が帰ってきたら聞いてみるしかないだろうな」 『そうか……』  肩を落としている姿まで想像できる。美香と、名前で呼ぶからには、大輔にとって興味を引かれる女なのだろう。たしかに少し精気がないような気がしたが、美人で通じる女だった。それが、入院するほどの|火傷《や け ど》を負ったとなれば、気が重くなっても仕方がないだろう。 『それで、お前のオヤジは?』 「まだ|行《ゆく》|方《え》不明だ」 『行方不明って……よくそれで平気だな。お前も、おふくろさんも……。普通、ほかに女がいるんじゃないかとか、疑うもんじゃねえか?』 「半分|透《す》けて見える女とつきあってんだろ」  灰皿を|膝《ひざ》の上にのせた竜憲は、|煙草《た ば こ》を吸い付けた。オイルライターの|蓋《ふた》を閉め、もう一度開いて火が消えたことを確認する。  たしかに、妙だ。  煙草を吸わない人間の寝具のまわりなど、どうあがいても火の気はない。 『……小野も興奮してたしな。話がちょっとこんがらかってんだが……』 「俺のせいだって言いだしたのか?」 『そうは言ってない。あいつだってそこまで|馬《ば》|鹿《か》じゃない。……けど……』 「けど、俺が|祓《はら》ったって言ったから、安心して家に帰っていた。そのせいで火傷をしたってんだろう?」 『まあな……』  よくある話だ。  自分では見ることも祓うこともできない人間にかぎって、半信半疑で|浄霊《じょうれい》を頼み、そのあとに悪いことが起これば、霊を祓えなかった人間のせいにする。自分が信じていなかったことなど、|綺《き》|麗《れい》に忘れてしまうのだ。  その点では、大輔はまだまともだ。超常現象を信じない代わりに、そのあとで何が起こっても、|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》のせいにはしない。  いっぱいに吸い込んだ煙を、ゆっくりと|吐《は》き出した竜憲は、視界の|隅《すみ》を横切った影に、指を向けた。  青白い光が走り、小さな悲鳴が上がる。  怒りにまかせて焼かれた|物《もの》の|怪《け》は、煙となって|掻《か》き消えた。 「|親《おや》|父《じ》が|捕《つか》まらなかったら、|弟《で》|子《し》を捜すさ。|溝《みぞ》|口《ぐち》さんはいないにしても、|鴻《おおとり》さんは連れていくわけないから……」  自分で言っておきながら、竜憲は目を|剥《む》いた。  父親の一番弟子。すでに道場にはいなくなっているが、弟子であることには違いない。あまり得意なタイプではなかったが、そんなことを言っていられる場合ではないのだ。 『まともな弟子が残ってんなら……』 「悪い。俺もすっかり忘れてたんだ。弟子っていっても、もう外に出ちゃった人だし。ずいぶん長いこと顔を見てなかったもんでさ。……とにかく、鴻さんに相談してみるわ。なんだったらお前も来るか? できれば|詳《くわ》しい話を聞き出してほしいんだが」 『わかったよ。……まったくとんでもないところでボケてんだから、お前は。親父さんが出かけたままだってぇから、こっちは、弟子も連れてってんのかと思ってたら……』 「悪かった」  まだ何か言いたげだったが、大輔は鼻をならすだけで|文《もん》|句《く》を|納《おさ》めた。  さっさと|謝《あやま》ってしまうに限る。いつまでも文句を並べる男ではないが、いったん|臍《へそ》を曲げられると、扱いづらいことこのうえないのだ。そのくせ、次に会った時には、すっかり忘れていることさえある。  数年来のつきあいで、こういう時の扱い方だけは、竜憲は修得していた。 「……で、どうする? あんたも来るか?」 『わかったよ。……まったく……。じゃあ、|叩《たた》き起こして悪かったな』  電話が切られる。  首をすくめて小さく笑った竜憲は、|煙草《た ば こ》を灰皿にねじ込んだ。  師の息子というだけで、子供にまで敬語を使う男を、竜憲は|苦《にが》|手《て》にしていた。だが、鴻は父親の弟子のなかでは、もっとも能力がある。  自分に|取《と》り|憑《つ》いた|化《ば》け|物《もの》の正体も、あるいは|看《かん》|破《ぱ》できるかもしれないのだ。  苦手だというだけで、その人間の存在を忘れてしまうなど、あまりにも子供っぽい反応だと、自分でも苦笑するしかない。  だが、わずかでも対抗策を示してもらえるかもしれないと思うと、気分も軽くなってきた。 「いつまでも、そうしていられると思うなよ……」  部屋を気軽にさまよう|魍魎《もうりょう》たちに、|笑《え》みを投げる。  知ってか知らずか、実体を持ち始めた連中は、てんでに|蠢《うごめ》いていた。      3  年齢は三十五、六だと記憶していた男は、二十代|半《なか》ばといった顔で、|竜憲《りょうけん》の前に立っていた。 「本当におひさしぶりです。……奥様からお電話をいただいた時は、驚きましたよ」  口もとに笑みを浮かべているものの、|瞳《ひとみ》は|微《み》|塵《じん》も笑っていない。冷たいほど整った顔に、|漆《しっ》|黒《こく》の長い髪。  姿形だけは常人となんら変わりない、それこそ、どこかの会社に勤めているといっても通用しそうな父親に比べると、この弟子のほうがよほど|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》らしい外見を持っていた。 「突然すみません。……ちょっと、聞きたいことができちゃって……」  言葉を途切れさせた竜憲は、確かめるように|鴻《おおとり》の顔を見上げた。  |穏《おだ》やかな笑みを浮かべたまま、しかし冷たい目は相変わらずの男が、次の言葉を待つ。  どうやら、竜憲の内側に入り込んだものには、気づいていないようだった。 「……こいつの……|姉《あね》|崎《ざき》|大《だい》|輔《すけ》というんだけど……。こいつの友達が妙なことに巻き込まれて。|親《おや》|父《じ》はいないし、相談できる人間っていうと……」 「五年ぶりに思い出していただけたということですか?」  そういえば、高校に入学した頃に会って以来だ。  その記憶力に|舌《した》を巻きながら、竜憲はぎごちなく笑った。 「火の気のない部屋で、突然|火傷《や け ど》をするってことある? ……|布《ふ》|団《とん》が燃えただけの|小火《ぼ や》だったんだけど、本人は入院したらしいんだ」 「火傷自体はたいしたことはなさそうですが、範囲が広いということです」  言葉を引きついだ大輔が、|笑《え》みを浮かべる。  こういうタイプを|苦《にが》|手《て》にするのは竜憲だけなのか。気に入らない人間を前にすると、必要最小限のことしか|喋《しゃべ》らない男が、自分から口を開いた。 「|跡《あと》が残るほどじゃないと思いますよ。髪が燃えたことにいちばんショックを受けているってことですから……」 「それは、大変な目にあわれましたね。……珍しい……。|魔《ま》|火《び》……ですね……」 「マビ?」 「ええ。火の気が集まるのですよ。ひどい時には、石が燃え上がったりします。……私も先生について、一度見ただけですが……。ひじょうに、珍しい現象です」  柔らかい黒髪を後ろで一つに|括《くく》った男は、手入れのよい指で茶を|点《た》てた。  客間というよりは茶室。道具こそ、盆にのせて出した簡単なものだったが、慣れた手つきは彼が茶をたしなむことを教えてくれた。  竜憲は大振りの|碗《わん》に入れられた茶を|啜《すす》りながら、鴻を|眺《なが》める。  珍しいものが出たと言いながら、落ち着きはらって茶を|点《た》てる男。父親の|弟《で》|子《し》のなかでも、特筆すべき才能の持ち主だということだったが、いつのまにか顔も見せなくなっていた。  そのくせ、|未《いま》だに弟子と見なされている。  大輔に茶を出した鴻は、ゆっくりと竜憲に向き直った。 「どうなさいますか? |魔《ま》|火《び》を|封《ふう》じるのは、そう難しいことではありませんが……」 「だったら、封じてくれ」 「よろしいのですか?」 「もちろんだ」 「では、用意してまいりましょう」  うっそりと目を細めた男は、軽く|会釈《えしゃく》すると腰を上げた。  ふすまが閉じられると同時に、竜憲が大きく息を|吐《は》く。  やはり|苦《にが》|手《て》だ。  自分が手を出せば、竜憲の仕事[#「仕事」に傍点]を横取りすることになるとでも思っているのだろう。竜憲自身がどう思っていようと、|大《だい》|道《どう》|寺《じ》|忠《ただ》|利《のり》の息子であるという認識はついて回るのだ。 「……|面《おも》|白《しろ》い男だな……。あれが|親《おや》|父《じ》さんの弟子か?」 「そうだ……」 「お前ん|家《ち》にいる連中とは、格が違うって感じだな」 「正解……だと思うが……。修行をやめたくせに弟子と名のってるのはあの人だけだからな」  ひょいと|眉《まゆ》を上げた大輔は、片手で茶碗を取ると、|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に飲みほした。  作法も何もあったものではないが、この男が|真面目《ま じ め》くさって茶をたしなむ図を想像すると、そちらのほうが似合わない気がする。 「……で、どうする? 親父の弟子ってことで、彼女の家に連れて行くか?」  緑に染まった|唇《くちびる》を|舐《な》め、大輔が眉を寄せた。 「それしかないだろうな。向こうの親は必死だし……」  簡単に想像がつく。  娘が原因不明の|火傷《や け ど》を負ったというのに、平然としている親もいないだろう。 「簡単だそうだしな……」  にやりと、|悪戯《いたずら》っぽく笑った大輔は、茶碗を|膝《ひざ》の前に戻した。  茶室ではない証拠に|座《ざ》|布《ぶ》|団《とん》も出されているのだが、正座に慣れていないので|居《い》|心《ごこ》|地《ち》が悪いのは同じである。しかも、あの妙に造りものめいた顔の男と話していると、気詰まりだった。  以前は、その物腰が|苦《にが》|手《て》なのだと思っていたが、どうやら、彼自身の持つ|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が苦手意識のもとだったようだ。 「……おまたせいたしました」  音もなく|襖《ふすま》が引き開けられ、男が現れた。  手に、|白《しら》|木《き》の|三《さん》|方《ぼう》を|掲《かか》げ、お|札《ふだ》がのっている。 「いつが|都《つ》|合《ごう》がいいですか? 向こうはいつでもいいと思いますが……」  そう問いかける大輔に、再び|唇《くちびる》だけの|笑《え》みが投げられた。 「その必要はないでしょう。……|魔《ま》|火《び》というのはたしかに珍しいものですが、|封《ふう》じるのはそう難しくありませんから。昔なら大変だったでしょうが、いまは水道がありますからね」  言葉の意味がわからず、互いの顔を見合わせる竜憲と大輔の前に、三方が差し出された。 「これを、すべての水の口のそばに|貼《は》っていただければ、それでよろしいのです。トイレや、洗面台も、忘れずに。家の外には必要ありませんから。……これほどはっきりと魔火だとわかっていれば……本当に簡単なのですよ」  たしかに、水道もない昔では、封じることは難しかっただろう。その時代ではどうやっていたのか、想像だにできないが、とにかくお札を貼るだけで済むというのなら、竜憲たちでも充分に役立ちそうだった。 「……わかりました。どうもありがとうございます」  ぺこりと頭を下げる竜憲に、鴻は笑みを浮かべた。 「いえいえ。何かあった時は、思い出してください。特に、お父上に話しづらいようなことがあれば……」  細められた目が|不《ぶ》|気《き》|味《み》だ。  父親に言えないような失敗をした時、手伝ってくれるとでもいうのだろうか。  あいにくと、自分の手に負えないと判断した時は、平気で父親に泣きつく程度のプライドしか持ち合わせていない。  それでも、こくりと|頷《うなず》いた竜憲は、もう一度礼を述べると、和紙にくるまれたお札を受け取り、腰を上げた。  あとに従う大輔は、奇妙な顔をしているが、おおかた足でも|痺《しび》れているのだろう。正座とは無縁の男なのだ。  竜憲のほうは父親の道場に顔を出す時だけにしろ、正座の訓練はしている。 「……倒れるなら、もう少しあとにしろよ……」  |悪戯《いたずら》っぽく笑う竜憲に、|片《かた》|眉《まゆ》を引き上げた大輔は、平然と玄関に向かった。  靴を|履《は》く動作も、別段不自然なところはない。  どうやら、竜憲の期待に反して、足が痺れたということではなさそうだった。  そして、玄関の|扉《とびら》を閉めたとたん、大輔は奇妙な表情を浮かべた理由を、|自《みずか》ら解説し始めたのだ。 「……あの男。……気に入らないな……」 「どうしたんだ? 突然」  言われてみれば、帰りがけにろくに|挨《あい》|拶《さつ》もしなかった。  それまでは平気で|喋《しゃべ》っていただけに、よほど気に入らない言葉があったのだろう。それがなんなのかは、竜憲にはわからなかった。  どちらにしろ、竜憲のほうは、あの自信満々の|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》とは|反《そ》りが合わないのだ。大輔が彼を|嫌《きら》ったとしても、賛同こそすれ、否定するつもりはない。 「|親《おや》|父《じ》さんに話しづらいようなことがあれば、とか言ってやがったよな」 「ああ。俺が失敗するとでも思ってんだろうな。修行もしないで霊能者の|真《ま》|似《ね》|事《ごと》をしてんのが気に入らないんじゃないの?」 「……違うな……」  きっぱりと言い切った大輔は、それ以上何も語ろうとはせずに、小さな庭を抜けると|門《もん》|扉《ぴ》を開いた。  住宅街の中を走る|狭《せま》い道に、竜憲の車が壁にへばりつくようにして止まっている。駐車が許されるほどの道幅はないが、このあたりを昼間に巡回する警官もいないようだ。  駐車違反のステッカーが|貼《は》られていないことを確かめた竜憲は、ドアにキーを差し込んだ。  当たり前のように、門柱の間に身を寄せた大輔は、竜憲が車を動かすのを待っている。そして、シートに腰を下ろすと同時に、深い息を|吐《は》いた。 「あいつが|何故《な ぜ》あんなことを言ったと思ってるんだ?」 「……だから……」 「お前が、親父さんに造反すると思っているぜ、あいつ……。造反するのを待っているのかもな」  大道寺の内情など何も知らない男の言葉とは思えない。  たしかに、|勘《かん》はよいが、ろくに知りもしない人間を論評するほど、|鉄《てつ》|面《めん》|皮《ぴ》ではなかったはずだ。 「……あんた……。どうしちゃったのさ。あんたらしくないよ」 「何が?」 「鴻さんのことさ。たしかに、俺は|苦《にが》|手《て》だけど、だからってそこまで言っていいとは思っていない。何より、俺が造反して、鴻さんになんの得があるのさ」 「|奴《やつ》には奴なりの|思《おも》|惑《わく》があるのさ」 「……|馬《ば》|鹿《か》|馬《ば》|鹿《か》しい……」  いささか荒っぽく、車を出した竜憲は、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》そうに顔を|歪《ゆが》めていた。  鴻のことを弁護する気などない。だが、大輔がこんな物言いをするということが、|承服《しょうふく》できなかったのだ。  見知らぬ人間のような気がする。  なんの確証もないことを、ここまできっぱりと言い切るなど、竜憲の知っている大輔ではない。  むっつりと押し黙ったまま、竜憲はアクセルを踏み込んだ。     第四章 |闇《やみ》への|扉《とびら》      1  次の角を曲がれば、目的の家がある。  |鎌《かま》|倉《くら》の市街の中心部は、|狭《せま》い道や古い屋敷、それに古式ゆかしい寺社と、妙な具合に飾り立てたファッション・ビル|擬《まがい》の建物で込み合っていて、人によっては|嫌《きら》うのだろうとは思う。けれども、そこには|不《ふ》|可《か》|思《し》|議《ぎ》な調和というものがある。  だが、|竜憲《りょうけん》の家のあるあたりから、切り通しを抜けてしまうと、そこはまったくの別世界だった。  ことにこのあたりは、その典型の分譲住宅地だ。建て売りの小さな同じ形の家が並んでいるわけではない。どれも金をかけて、|贅《ぜい》|沢《たく》に造られた家ばかり、同じ形の家など一軒もないのである。  それにもかかわらず、なんともいえず無機的で安っぽく見えるのは、自分の感性が古びた家々に|慣《な》らされているからだけではあるまい。  だからというわけではないのだが、竜憲はここを歩いていること自体に、どういうわけか|嫌《けん》|悪《お》|感《かん》を覚えていた。  それが、目的の家が近づくにつれて、ますますひどくなっているのだ。  どうやら、常から感じる新興住宅地を敬遠する感覚とは、原因が違うことはたしかである。何に|邪《じゃ》|魔《ま》をされるわけでもないのに、足が重い。 「|大《だい》|輔《すけ》……あんた、一人で行かないか?」  ちろりとこちらを見下ろした大輔が、あえてその問いかけを無視する。 「そうだよな……」  そうされることはわかりきっていたのだが、とりあえず口に出さねばならないほど、嫌悪感が強くなっているのだ。  このまま先に進めば、何か最悪の事態が起こりそうな、そんな予感がする。  といって、それを主張するだけの確信もない。 「今度はなんなんだ? また、頭の上に重しをのせられてんのか?」  ずいぶんと間をおいて、急に大輔が聞く。 「そういうわけじゃ……」  口ごもりながら答えた竜憲を、大輔は不可思議な表情で|眺《なが》めていたが、しばらくたって不意に口を開いた。 「……お前が渋る時は、何かあるんだ」 「はい?」 「この数日で俺が|悟《さと》ったことだ」 「そりゃな。……あんた今頃悟ったの?」  できるだけ軽く言ったつもりだったが、あまり成功はしなかったらしい。  大輔は渋い顔で、ぴたりと足を止めた。 「わかってるな? お前は|魔《ま》|火《び》|封《ふう》じのお|札《ふだ》を置きに行くんだからな」 「わかってるよ」 「だったら、いいな。お前が出向いてまずいことが起こりそうなら、はっきりそう言え。事と次第によっては、一人で行ってやらなくもない」 「ずいぶんと……ものわかりがいいじゃないか」 「当然だ。……魔火が実在するかどうかはともかく、彼女は本当に入院しちまったんだからな。万が一にも、何かあってからでは遅い」  たっぷり三秒ほど、竜憲は長い付き合いの親友を|眺《なが》めた。  女が|絡《から》むとこれだ。フェミニストというべきなのか、|見境《みさかい》がないというべきなのか。それとも、立て続けに起こる奇妙な現象に、独自の理論付けをすることをついに|諦《あきら》めたのか。  どちらだとしても、いままで聞いたこともない|台詞《せ り ふ》だった。 「どうなんだ?」 「いやな予感がする」 「本当か!?」  真剣そのものの顔を見上げ、|真《しん》|摯《し》な表情を|披《ひ》|露《ろう》する。 「あんたがそんなことを言い出すなんて……。絶対に変だぞ」 「……おい……」 「あんたさ。素直になんなよ」 「なんだと?」  竜憲は、|眉《まゆ》をひそめた大輔に、にっこりと笑ってみせた。 「俺のほうも聞きたいことがあるんだ。いいか?」  大輔が口を開かぬのを幸いに、言葉を続ける。 「あの鏡なんだけど。あれに何かあったんじゃないの?」 「何かってのは、どういう意味だ」 「だから、何かが|映《うつ》ったとか。|喋《しゃべ》ったとか。何か出てきたとか……」  一瞬絶句した大輔が、声を上げて笑い始める。  ちょうど角を曲がってきたどこかの主婦が、その笑い声にぴくりと|頬《ほお》を引きつらせるのが見えた。が、その|棘《とげ》のある|被《ひ》|害《がい》|妄《もう》|想《そう》の目つきが、即座にうさんくさいものを見る目に変わる。  |慌《あわ》てて、その目に気づかぬ振りを決め込んだ竜憲は、大笑いをする大男を|睨《にら》みつけた。 「なんだよ。……そんなにおかしい?」  しばらく笑っていた大輔が、唐突に笑いを引っ込め、|厳《いか》めしい顔つきになる。 「どうして、すぐそういうことになるんだよ。お前は……」 「いつも見たら信じる、って言ってるから」  こともなげに言い返した竜憲は、内心で|舌《した》を出した。  どこか引っかかるものもあるのはたしかだが、本気で言っているわけではない。そのはずなのだが、当の大輔はひどく|真面目《ま じ め》な顔をして、考えこんでいた。 「何……?」 「実はな。たしかに妙なことはあった」  大きく目を見開いた竜憲は、異様なものでも見るように目の前の大男を見つめた。 「気のせいだ、とは思うんだが……。あの鏡がな……どういうわけか、|磨《みが》きたての鏡に——」  言いかけて大輔が首を振る。 「あ……いい。聞かなかったことにしてくれ」 「そ、そうだな。——なんていうわけないだろ! どういうことだ? それは」 「そう言われてもな」  苦笑を浮かべた大輔を見上げ、竜憲は口もとを|歪《ゆが》めた。 「ま、そんな話はそのお|札《ふだ》の始末をつけてからにしようぜ」 「ずるいぞ」 「俺はだな。単に、今度のことはどうもいままでと違うぞ、と言いたかっただけで……。今度だけはお前の悪い予感も信じようかな……とだな」  歯切れの悪い言葉に、竜憲はますます顔をしかめる。  わざとらしく|咳《せき》|払《ばら》いをした大輔は、|眇《すが》めた目でその竜憲を|眺《なが》め、言葉を継いだ。 「どうなんだよ。本当に俺だけが行ったほうがいいのか?」  話が元に戻ってくるところに感心しながら、竜憲は考え込んだ。 「どうなんだろう」  そういえば自分で言い出したことなのだ。だが、いざ提案が飲まれるとなると、どうも別の不安が頭をもたげてくる。  あらゆることが、信じられない。しかも、そのなかでいちばん信じられないのが、自分の感覚なのである。  ここまで進むのがいやならば、何かあると断じても構わなかったのだが、それもいままでの話。実際、見えてくるものも、聞こえてくるものも何もないのだ。|何故《な ぜ》、こんなにも不安定なのかよくわからない。周囲に|群《むら》がる|妖《よう》|鬼《き》どものせいだろうか。  巨大な動く|護《ご》|符《ふ》の威力はたいしたもので、彼とともにいるかぎり姿を見せないが、一歩でも先に路地を曲がろうものなら、視界は妖鬼にふさがれてしまった。  そして、護符が姿を見せると悲鳴を上げて逃げていく。  一瞬の緊張と、|笑《え》みが込み上げるほどの|緩《かん》|和《わ》。その繰り返しが、神経を|麻《ま》|痺《ひ》させていくような気がする。 「……あんたはどう思う?」 「あぁ?」  広い肩を|傾《かし》げて、顔を近寄せた大輔は、まじまじと竜憲を|見《み》|据《す》えた。 「どうしちまったんだ? 俺が|化《ば》け|物《もの》連中については、何もわからないって知っているだろうが。お前が決めるしかないだろう」 「……わかってるけどさ……」  自分の内側に入り込んだ|魔《ま》|物《もの》が、何か関係しているのかもしれない。とにかく、一歩でも先に進むのが不安なのだ。  何かがあるかもしれないからこそ、自分が行かなければならないのだろうが、義務感など消し飛んでしまうほどの不安がある。 「いやなのか? 単純に……」 「そうかもしれないけど……」 「俺が行ってカタがつくならいいが。それで済むのか?」 「……だよな。何かがあるから俺が行くしかないんだよな」 「何をいまさら……」 「わかった。……行こう」  きっぱりと言い切った竜憲は頭を振り立てた。 「そんなにいやだったら、ここいらで待ってろ」  ところが、決意とは裏腹に大輔が思わぬことを|宣《のたま》う。 「お前の|親《おや》|父《じ》さんの一番|弟《で》|子《し》がこれを|貼《は》ればいいって言ったって言えばいいんだろ? 簡単じゃねえか」 「いいよ。あんただけ行かせて|後《こう》|悔《かい》するぐらいなら、自分で行く。それより……絶対に俺のそばを離れるなよ」  思い切り|眉《まゆ》を寄せた大輔は、上体を引き起こすと、|顎《あご》を上げて竜憲を見下ろした。 「何も見えなくても、やられるってことか?」 「それもあるがな。……俺のほうがまずいんだ。とにかく行こう」 「どういうことだ?」 「|取《と》り|憑《つ》かれてるらしい。……あの鏡の中にいた|奴《やつ》にな。まだ眠っているみたいだが……。だから、いやな予感がするっていっても、俺にとっていやなことか、この中に入っている奴にとっていやなことか、わからないんだ……」  自分の胸を示して、にっと歯を見せて笑った竜憲は、目の前に立ちふさがった男の肩を軽く押した。 「簡単に言うなよ……。どうしてそれを|鴻《おおとり》さんに言わなかったんだ?」 「確信がない」  |妖《よう》|怪《かい》|変《へん》|化《げ》や|幽《ゆう》|霊《れい》の|類《たぐい》はまったく信じないくせに、|取《と》り|憑《つ》かれたなどということは、素直に信じるのか。|不《ぶ》|気《き》|味《み》なものでも見るように竜憲を見下ろした大輔は、仕方なく歩き始めた。  小さな敷地に、どうにかガレージを確保した家が、目的の|上《うえ》|田《だ》|美《み》|香《か》の自宅である。ガレージの左右と奥に並べられた古タイヤが、ここに車を収める|難《むずか》しさを教えてくれた。  そこだけぽっかりと|空《あ》いた空間が、うら|寂《さび》しい。 「……誰かいるのか……。病院で付き添ってんじゃ……」 「おふくろさんがいるはずだ。昼間は帰っているって話だから……」  インターホンに手をかけた大輔は、小さく|咳《せき》|払《ばら》いをして、ボタンを押した。  少し間をおいて、返事が返る。 「……あ、|姉《あね》|崎《ざき》です。このたびはどうも……」 『はい。……どうぞ……』  気の乗らない声で、女が応じた。  つい先日現れて、わけのわからない|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えた男など、信用していないに違いない。娘の親友の同期生という、あまりにもあやふやな立場の大輔など、うさんくさく思われて当然だった。  |苦《にが》く笑った大輔が、フェンスを開けて中に入る。  玄関の|鍵《かぎ》ははずされていたが、出迎えに出た女は、けっして歓迎しているという顔ではなかった。  外の冷気から解放されて、暖かい空気に包まれたというのに、身体は緊張したままで、竜憲は軽く|会釈《えしゃく》した。  大輔のほうも同じ気分なのか、ひどく硬い顔で頭を下げる。 「……このたびはどうも……。美香さんの|容《よう》|態《だい》はどうですか?」 「ええ……。ずいぶん落ち着いてきました。|火傷《や け ど》はすぐに|治《なお》るそうですけど……どうしてあんなことになったのか……」  ちらりと竜憲を見る。  彼が何かしたとは思っていないにしても、|漠《ばく》|然《ぜん》と疑っていることはたしかだ。 「それでお|伺《うかが》いしたんですが……。知り合いの|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》に聞いたら、|魔《ま》|火《び》のせいだろうということで、お|札《ふだ》をくれたんです」  うなずいてはいるものの、女の顔にはくっきりと不信感が|刻《きざ》まれている。  訪ねてきた人間を玄関から上げようともしないあたりに、その心理が|透《す》いて見えた。 「水の出るところすべてに、このお|札《ふだ》を|貼《は》ればいいということで……」  和紙の包みを差し出した大輔に、一応手を差し延べた女は、それを受け取ると、ぎごちない|笑《え》みを浮かべた。 「お上がりください。……すみません。こんなところで、お茶も差し上げずに……」  ようやく、敵ではないと認めた女が、玄関脇のガラス|扉《とびら》を示す。  娘の身に起こったことを説明してもらいたいのだろう。それがどれほど|突《とっ》|飛《ぴ》であろうと、何もわからない状況よりはましなのだ。 「……おかけになってください」  ここ数日ですっかり精気がなくなった女は、二人にソファーを|勧《すす》めると居間を出ていった。 「……で、どうだ?」  三人がけのソファーの端に座った大輔が、ちらりと竜憲を見る。コートの前を開けただけで|脱《ぬ》がないあたり、|長《なが》|居《い》をする気はないと、表明しているのだろう。 「ひどいな。……むかむかする……」  いまさら、取りつくろっても仕方がないとわかっている竜憲は、しごく正直に感想を述べた。 「また新しいのが|取《と》り|憑《つ》いてんのか?」 「どうだろう……」  ひょいと肩を寄せた竜憲は、ソファーの逆端に腰を下ろすと、周囲を見回した。  こざっぱりした居間は、客間も兼ねているらしく、生活臭がほとんどない。まだ新しいせいか、壁紙も汚れていないし、余計な家具も置かれていなかった。  大型のテレビと、上半分が書棚になった収納|箪《だん》|笥《す》があるだけだ。  普通なら好感が持てる部屋だろう。  しかし、|淡《あわ》く|唐《から》|草《くさ》|模《も》|様《よう》の浮かぶ壁紙のそこかしこから、|障気《しょうき》としか言いようのない空気が|漏《も》れていた。 「……空気が|渦《うず》を巻いている。……|魔《ま》|火《び》かもしれないし……そうじゃないかも……」  言葉を途切れさせた竜憲は、扉が開くと同時に、口を|噤《つぐ》んだ。 「お待たせしました」  コーヒー・カップをのせたトレイを持って、女が現れる。 「お疲れでしょう。すみません。お札を渡したら、すぐ帰るつもりだったんですが……」  人好きのする笑みを浮かべた大輔が、ぺこりと頭を下げる。  二人の前にカップを置いた女は、ソファーに腰を下ろすと同時に、深い息を|吐《は》いた。  話を自分から切り出す元気もないようだ。  娘の|火傷《や け ど》が思ったより軽かったことに|安《あん》|堵《ど》していても、その原因が|掴《つか》めないために、不安なのだろう。  いつ、また同じことが起こるかもしれないのだ。原因がわからないのでは、防ぎようもない。  再び、息を|吐《は》いた女は、和紙の包みをセンター・テーブルにのせた。 「……これを水の出口に|貼《は》ればいいのですか?」 「はい。そう言っていました。珍しいそうですよ。|魔《ま》|火《び》というのは……。でも、すべての水の出口のそばに貼れば|治《おさ》まるそうです」 「……|霊《れい》とか、|怨霊《おんりょう》とか……信じていなかったんですけど……」  ぎごちなく笑った女は、ゆっくりと和紙を開いて、お|札《ふだ》を取り出した。  |朱《しゅ》|印《いん》が押されたお札には、奇妙な文字が|墨《すみ》で書かれている。 「本当にどうしてあんなことに……」 「石が燃えることもあるそうですよ。水まわり……トイレとかも忘れずに、このお札を貼れば、それで封じられるそうです。|大《だい》|道《どう》|寺《じ》|忠《ただ》|利《のり》の一番|弟《で》|子《し》が言ってたから、たしかだと思います。もっとも、怨霊とかを信じないのは、俺も同じだったんですけど……。ただの紙だとしたら、それで悪いことが起こるわけがないし、やるだけはやってみたほうがいいんじゃないですか」 「そうですね。……わざわざどうも……」  お札を|丁《てい》|寧《ねい》に包み直した女は、竜憲に視線をやった。  竜憲のほうが|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》という触れ込みだっただけに、部屋を見回しているのが気にかかったのだろう。 「まだ何か……」 「あ、いえ。ちょっと……魔火というのを見たことがないんですよ。すごく珍しいものらしいから、知らないのも当たり前だと言われてしまったんですけど。……見えないみたいだ」  コーヒー・カップに手を伸ばした竜憲は、ひとくち口に|含《ふく》んで、|眉《まゆ》を寄せた。  恐ろしく奇妙な味がする。  味というよりは、|気《け》|配《はい》。  |慌《あわ》てて、ハンカチを取り出し、こっそりとコーヒーを吐き出す。  グレイのハンカチが真っ赤に染まっていた。 「……できれば、すぐに貼っていただけますか? そのあとで、美香さんの部屋を見せていただきたいのですが……」  硬い顔で|頷《うなず》く女が、すぐに腰を上げる。  竜憲たちを信用したわけではない。  ただ、それしか|縋《すが》るものがないのだ。何より、ただの紙であっても、これ以上悪くはならないという大輔の言葉が、彼女を動かしたのだろう。  居間を出ていく女の後ろ姿を見送った竜憲は、|唾《つば》をハンカチでふき取った。  まだ奇妙な味がする。 「どうしたんだ?」  |訝《いぶか》しげな顔をする大輔に、ハンカチを見せる。  ぎょっと、目を見開いた大輔は、竜憲の前のカップを取って中を|覗《のぞ》き込んだ。 「ただのコーヒーだぞ」  鼻を|蠢《うごめ》かしてにおいを確かめ、恐る恐る口に|含《ふく》む。 「においも、味もコーヒーだ。口の中でも切ったのか?」 「これの色は見えるってことだな」 「そりゃ見えるさ。……血、だろ?」 「そういうことだ。|下手《へ た》をすると、|魔《ま》|火《び》も俺が連れて帰ることになるのかもな……」 「魔火がこんなことをやるのか?」 「知らん……」  むっつりと応じた竜憲は、大輔のコーヒー・カップに手を伸ばした。  用心深く、|唇《くちびる》に液体を触れさせる。  やはり、奇妙な味だった。 「……なんでお前だけ……。俺はなんともないぞ」  コートのポケットを|探《さぐ》ってポケット・ティッシュを引き出した大輔が、それを投げた。 「真っ赤だぜ。……|拭《ふ》けよ」  どこかのテレフォン・クラブのティッシュは、駅前で押しつけられたものだろう。いつからポケットに入っていたのかは知らないが、まわりのビニールがずいぶんとくたびれていた。  質がよいとは言い難いティッシュが、赤く|染《そ》まる。  血を含んだティッシュとハンカチをポケットに|捩《ね》じ込んだ竜憲は、手で顔を|覆《おお》って、深い息を|吐《は》いた。 「……さっさと引き上げよう。どうやら、俺がここにいたほうが悪いことが起こりそうだ」 「|魔《ま》|火《び》は?」 「|大丈夫《だいじょうぶ》だろう。もし、|祓《はら》えないようなら、俺が連れて帰るさ……」  気味悪そうにコーヒー・カップを押し戻した大輔は、顔を上げようともしない竜憲を、不安げに|眺《なが》めていた。  |派《は》|手《で》な戦いなら、何度か立ち会ったことがある。  しかし、こんな奇妙な現象は初めてだった。  ほかの人間がやったのなら、|手《て》|品《じな》ではないかと疑っただろう。しかし、竜憲は|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》として動くことを|嫌《きら》っている。  それが、わざわざ|虚《こ》|仮《け》|威《おど》しを使うとは思えなかった。  |唐《とう》|突《とつ》に、|取《と》り|憑《つ》かれていると言った竜憲の言葉が気にかかり始める。  霊を引き取るとか、引き受けるとかいうのなら、いつものことだったが、取り憑かれたという言葉を使ったことはないのだ。  大輔にとっては、さして違いのない言葉にも思えるが、竜憲は明確に使い分けている。  たしかに、取り憑かれたのだろう。 「マジに、|親《おや》|父《じ》さんを捜したほうがよかないか? 誰か……」  言葉を途切れさせた大輔は、入り口に目を向けた。  妙にすっきりとした顔で、女が入ってくる。 「トイレにも|貼《は》ってきました。……美香の部屋をご覧になりますか?」  |笑《え》みを取りつくろった竜憲は、ゆっくりと腰を上げた。 「よろしいですか?」 「ええ。消防署の調べも終わってますから」  いくら|小火《ぼ や》でも火を出したことには違いないので、検査が行われたらしい。もっとも、納得のいく結果が出なかったからこそ、家族は不安に思っているのだろうが。  |促《うなが》すようにドアの前に立ったままの女に、軽く頭を下げて美香の部屋に向かう。  階段を上りつめたところにある、大振りのシンクを持ったシャンプー・ドレッサーの横に、お|札《ふだ》が|貼《は》りつけられていた。  オフ・ホワイトで統一されたドレッサーには、ひどく不似合いだった。 「これでよろしいですか? セロハンテープで貼ってしまったんですけど……」 「いいですよ。お札に|穴《あな》を|空《あ》けるより、よっぽどいい」  妙に真剣な顔で聞く女に、小さく笑った竜憲は、左右に延びる|廊《ろう》|下《か》を右に曲がった。  二階の南側。この家でいちばん日当たりのよい部屋が、一人娘にあてがわれているのだ。 「……電気も使っていないし……。うちでは誰も|煙草《た ば こ》は吸わないんですよ。ですから、どうして火が出たのか、どうしてもわからなくて……」  そういえば、居間には灰皿の一つもなかった。煙草を吸う人間がいるということなど、考えの外なのだろう。要求すれば客用の灰皿くらいはあるかもしれないが、なかなか切り出しにくいものだ。  なんの異常もない部屋の|扉《とびら》を引き開けると、きな|臭《くさ》いにおいが押し寄せてくる。  いっぱいに引き開けられた窓から、冷気が吹き込んでいたが、部屋に|染《し》みついたにおいはまだ取れていなかった。 「……どうです?」  壁ぎわに立ち、目を細めて室内を見回した竜憲は、さらに両手を差し上げて|掌《てのひら》を壁に向けた。  気にかかるほどの|気《け》|配《はい》はない。  すくなくとも、人に危害を与えられるほど強いものは、何一つ残っていなかった。むしろ、居間に|潜《ひそ》む“悪意”のほうがよほど|質《たち》が悪い。 「何もないようです。もう、|大丈夫《だいじょうぶ》だとは思いますが、何かあれば……どんな小さなことでも、教えてください」 「ええ……。何かしら……このお札を貼ると、すっきりしたんですよ。窓もやっと開ける気になったし……。においが残るから、開けなきゃいけないのはわかってたのに……」  開けさせないものがいたのだろう。  暖かい室内で、ぬくぬくと過ごしていた|物《もの》の|怪《け》が、|魔《ま》|火《び》とともに封じられるよりは、と逃げ出したに違いない。 「お札が|効《き》いたような気がします。妙なことですけど……」  |笑《え》みを投げる女は、あらためて竜憲に頭を下げた。 「本当に……」  言葉を|遮《さえぎ》るように電子音が鳴る。 「……あ、すみません……」  |慌《あわ》てて、ステレオの上の電話に手を伸ばした女は、一言二言話すうちに、真っ青になった。 「なんですって!」  目を見開き、視線が宙をさまよう。 「そんな|馬《ば》|鹿《か》な! どうしてそんなことが……」  視線が竜憲を|捕《と》らえる。  |憎《ぞう》|悪《お》と殺意。 「……わかりました……すぐに……」  |叩《たた》きつけるように電話を切った女は、竜憲を|睨《にら》み|据《す》えた。 「あなたは何をしたの? ……美香が何をしたっていうの……。どうして……」  それだけ言うと、乱暴に窓を閉め、部屋を飛び出していく。  顔を見合わせた竜憲と大輔は、慌てて女のあとを追った。      2  ソファーに|寝《ね》|転《ころ》がり、|天井《てんじょう》に向かって煙を吹き上げる。  腹の上にのせた灰皿が、妙に重い。  クリスタルの灰皿は、人を|殴《なぐ》り殺せそうなほど、大振りのものだった。そこに、吸い差しが山を作っている。どれもこれも、火を|点《つ》けただけでもみ消されたように、長いままだ。  |竜憲《りょうけん》は、天井の|節《ふし》を見るとはなく、|眺《なが》めていた。  部屋を勝手にうろつき回る|妖《よう》|鬼《き》たちも気にならない。  むしろ、動くものがいるということが、気休めになっていた。  |上《うえ》|田《だ》|美《み》|香《か》が死んだ。  病院のベッドの上で、|黒《くろ》|焦《こ》げの死体になっていた女は、真っ白なシーツに横たわっていたという。  変死という言葉では片づけられない。  何があったのか。どうして美香が|狙《ねら》われたのか。それすらもわからなかった。  感受性が強い、どちらかといえば|憑《つ》かれやすい女だったが、殺されるほどの力を持っているわけではない。本人がノイローゼになって|衰弱《すいじゃく》したというのなら|納《なっ》|得《とく》もできるが、炎という物理的な力に襲われたとなると、話は変わってくる。  なぜそんなことになってしまったのか。 『お前のせいだよ。お前がいつまでもそうしているからだ』  |天井《てんじょう》の|羽《は》|目《め》|板《いた》の|節《ふし》から、顔が|生《は》えでてくる。  光をまったく反射しない黒い顔は、真っ赤な口を開いて|嘲《あざ》|笑《わら》った。 『いつまで強情を張る? |逆《さか》らっても|無《む》|駄《だ》なことはわかっておろうが』  |片《かた》|頬《ほお》を|歪《ゆが》めた竜憲は、黒い顔に煙を吹きかけた。 『ぐわっ!』  ただの煙に襲われて、顔が叫ぶ。  見る間に小さく|縮《ちぢ》んだ顔は、元の節に戻っていった。  自分の力が恐ろしく強くなっているのがわかる。そのくせ、コントロールがまるで|効《き》かないのだ。  |化《ば》け|物《もの》を指のひと振り、目つきだけで消せるかと思えば、いつもなら片手間で|浄霊《じょうれい》できるような|霊《れい》|魂《こん》に、しつこくつきまとわれたりする。やはり、自分の力というよりは、内に|潜《ひそ》む何か[#「何か」に傍点]の力なのだろう。 『恐ろしいだろう? 不安だろう?』  部屋に|漂《ただよ》う|煙草《た ば こ》の煙が、顔のような形を描き出す。  人とも|獣《けもの》ともとれる歪んだ顔[#「顔」に傍点]が、竜憲を見下ろし、|耳《みみ》|障《ざわ》りな声をたてて笑った。その顔から|生《は》え出すように、小さな顔が浮かび、|甲《かん》|高《だか》い声で|喚《わめ》き立てる。 『けけっ……。お前のまわりで人が死ぬ! お方様もお喜びじゃ!』  |眉《まゆ》を寄せた竜憲に向かって、歪んだ顔が下りてくる。 『お前が|もが[#「もが」は「足偏」+「宛」Uncicode="#8e20"]《もが》けばもが[#「もが」は「足偏」+「宛」Uncicode="#8e20"]くほど、人が死ぬるぞ』  けたけたと嘲笑う小さな顔が、笑い声だけ残して、歪んだ煙の渦の中に消え失せた。代わりに浮かび上がった目のない顔が、口ばかりをぱくぱくと動かし、聞き取れぬほど低く間延びした声で何か|呟《つぶや》く。 『……あぁしぃたぁ……もぉ』 『|忠《ただ》|利《のり》の帰りを待っているのなら|無《む》|駄《だ》だぞ』  不意に父の名を出され、竜憲のほうが|仰天《ぎょうてん》した。  吹き飛ばしてやるつもりを、思い留まる。  だが、かえって迷い続けていた気持ちのほうは、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》に整理がついた。この|妖《よう》|魔《ま》たちは、|大《だい》|道《どう》|寺《じ》忠利を認識しているのだ。ただやみくもに、自分の内に|潜《ひそ》む力に引かれて|取《と》り|憑《つ》いたのではないらしい。 「……ふん。|親《おや》|父《じ》が|怖《こわ》いのか」  ぼそりと|呟《つぶや》いたとたん、大きな顔は散り散りになり、無数の顔がいっせいに騒ぎ立てる。 『|馬《ば》|鹿《か》にするな!』 『恐ろしいものか!』  |嘲《あざ》|笑《わら》う顔。泣きそうに|歪《ゆが》んだ顔。怒りに目を|剥《む》く顔。顔、顔、顔。 『……思いあがるな』 『歳月に|褪《あ》せた力など!』 『つまらぬ人間のくせに!』  てんでに|喚《わめ》く言葉が、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》に|逐《ちく》|一《いち》頭に入ってくる。 『静まれ!』  突然に、部屋を揺るがすような|怒《ど》|声《せい》が響き、甲高い笑い声が少しずつ|治《おさ》まる。笑い声が小さくなるにつれ、顔は一つにまとまって、端正な顔を作り出した。 『女の腹から生まれたものに何ができるというのだ?』  |厭《いや》|味《み》なほど整った顔が、竜憲を見下ろし、静かに|囁《ささや》く。 『この世のものに何ができる?』  にっと笑った顔が、|天井《てんじょう》に吸い込まれるように消える。 『|無《む》|駄《だ》だ』  中空から声だけが響き、それも消えた。それきり、すべての声は|途《と》|絶《だ》え、見え隠れする影も|跡《あと》|形《かた》もなく消え失せている。  天井を見つめたまま、竜憲は息を|吐《は》いた。  ただ視界の|隅《すみ》で|蠢《うごめ》いていただけの|魍《もう》|鬼《き》の|類《たぐい》が、急に意思を伝えてくるようになったのである。それも、日に日に明確な声として聞こえるようになっていた。大輔をはじめとする、いわゆる普通の人間[#「普通の人間」に傍点]には聞こえないのだろうが、彼らの声が耳に届くのと同じように、|妖《よう》|怪《かい》どもの声も聞こえるのだ。あまりよい|兆候《ちょうこう》とは言えないだろう。  自分が現実の世界と、|幽《ゆう》|界《かい》の|狭《はざ》|間《ま》に立っているように思える。  普通にいう幽界とは少し違うのかもしれない。それこそ、|魔《ま》|界《かい》とでも言ったほうがいいのだろう。もとはどうあれ、彼ら[#「彼ら」に傍点]は人とは違う世界に生きる者[#「生きる者」に傍点]達なのだ。  言いようのない不安の根拠が、見え始めている。  自分が|扉《とびら》にされるのではないかという不安。  いるのだ。幽界と現世を無意識に、あるいは意識的に|繋《つな》ぐ者が。なまじ能力があるだけに、自分がそうなったら始末が悪い。しかも、それを|制《せい》|御《ぎょ》できるならともかく、いまの自分にはそれをする自信がない。  修行でどうこうなるとは言いきれないが、|分《ぶん》|不《ふ》|相《そう》|応《おう》の力がこれほど|疎《うと》ましく思えたことはなかった。  彼らの言葉どおり、父親の力がいかほどでもないというのなら、自分に何ができるというのだろう。  不安というよりは、すでに現実なのかもしれない。  実際に、上田美香は死んだのだ。  病院のベッドの上で、|黒《くろ》|焦《こ》げになって。  本当のところはわからない。だが、彼女の死が自分に|係《かか》わっていると言われれば、否定はできないのだ。  結論は出したくない。それが真相である。  精神的に落ちこめば、相手の思う|壷《つぼ》だとわかっていても、思考の堂々巡りから抜け出るのは容易ではない。  と、|扉《とびら》が小さく|叩《たた》かれた。 「リョウちゃん……」  |控《ひか》えめに声もかけられる。  瞬時に、かすかに残っていた影たちの|気《け》|配《はい》が消え失せた。 「はい」  |慌《あわ》てて飛び起きた竜憲は、扉を|見《み》|据《す》え短く応じた。ある意味では、大輔以上の|護《ご》|符《ふ》の訪問である。  ほっとすると同時に、何か聞かれたのでは、と不安がよぎった。元々、放任主義の母親だ。この部屋に来ることなど|滅《めっ》|多《た》にない。  いくら慣れているとはいえ、人には見えぬものに向かって|怒《ど》|鳴《な》りつけているのを知られたくはない。世の母親とは違って、別のところで心配するのは目に見えていたから。 「起きてた?」  引き開けられた扉から、母親の顔が|覗《のぞ》く。 「うん、まあ。……何?」  眠っている時間ではないが、|曖《あい》|昧《まい》に応じる。 「忠利さんがね。もうすぐお帰りになるから……」 「え?」  どうやら、竜憲の想像とは別の用で現れたらしい。目を見開いた竜憲に、母親が|戸《と》|惑《まど》った表情でぎごちなく笑い返す。 「そうなのよ。……それで、リョウちゃんに話があるから、起きてなさいって」 「あ、うん。もちろん。……で、ほかには何か?」 「それが……ね。何もおっしゃらなくて、珍しくひどくお疲れのようで……」 「電話?」 「え……もちろんそうよ」  聞かずもがなの問いに、彼女は妙な顔をして|頷《うなず》く。 「そうだよな……どこから?」 「さぁ。とにかく、すぐに帰るから、あなたを家から出さないように……っておっしゃるのよ」  竜憲が訴えた時には笑ってさえいたくせに、父親の言葉となると、真剣に|捕《と》らえるらしい。  |密《ひそ》かに|溜《た》め|息《いき》を|吐《は》いた竜憲は、ベッドから下りた。 「|鴻《おおとり》さんのことは言ってくれた?」 「あら、言ってないわよ。……だってリョウちゃん、なんにも言わなかったじゃない」  鴻に会いに行くことは、一応報告したのだが、彼女にはその意味合いは伝わらなかったらしい。  まぁ、当然だったが。 「そうだよな。案外……、|親《おや》|父《じ》は知ってるかもしれないし……」 「そうねぇ。鴻さんなら、忠利さんの居所を知っていてもおかしくないわね」  ——ほんとかよ! ——  上げかけた|罵《ば》|声《せい》を、どうにか飲み下し、竜憲は母親を|睨《にら》みつけた。 「……知ってるかも……って」 「だって、忠利さんがいちばん信頼なさっている方ですものね」 「あ……そう」  一瞬にして、気が|萎《な》える。 「そうそう、サコちゃんのことは言っておいたわ。……心配はいらないだろうって」 「あ、そう」 「まぁ、どうしちゃったのよ、リョウちゃん。……忠利さんのお帰りを待っていたんでしょう?」 「そうだよ」 「とにかく伝えましたからね」  にっこりと|微笑《ほ ほ え》んだ彼女は、|扉《とびら》を閉めかけて、ふと手を止めた。 「……お疲れのようだから、無理なことをお願いしちゃだめよ」 「はいはい」  もう一度微笑んだ、母親の顔が扉の向こうに消える。  小さく音をたてて扉が閉じると、|有《う》|象《ぞう》|無《む》|象《ぞう》の|気《け》|配《はい》がまた戻ってきた。先ほどのように、形を取ることはないが、あらゆる|隙《すき》|間《ま》から|這《は》い出てくるように、気配だけが部屋に集まってくる。  鼻の頭に|皺《しわ》を寄せた竜憲は、|本《ほん》|棚《だな》に並んだビデオに手を伸ばした。  映画という|雰《ふん》|囲《い》|気《き》ではない。  ミュージック・クリップ集の一つを引っ張り出すと、ビデオ・デッキに放り込んだ。  テレビをつけ、ステレオのスピーカーを生き返らせる。  テレビの画面から一瞬|後《おく》れて、スピーカーに音が入り、予想より大きな音が、部屋の中を走り回った。  ボリュームを下げようとして、思いとどまる。  くさくさした気分を吹き飛ばすには、ちょうどの音量かもしれない。  そのまま、ベッドに身体を投げ出すと、見るとはなしに画面を|眺《なが》める。  |派《は》|手《で》なコスチュームのボーカリストが、ステージの中央でシャウトしていた。手に取ったビデオとは違う。ろくに見もせずに取ったからだろうか。|隣《となり》に並んだものをかけてしまったようだ。 「まぁ……いっか」  ひとりごちて、ずるずると身体を引き上げると、ヘッド・ボードに背を預ける。  どうせなんでもよかったのだ。わざわざ替えるまでもない。  これだけの音量でかけると、ベースとドラムの低い響きが、直接震動で伝わってくる。  はっきりいって、はたからすれば騒音だろうが、音割れもせずに室内を満たす音は、妙に精神を落ち着かせてくれた。  何度も見たライブ・クリップ。いまさらと思いつつ、なんとなく画面に引き込まれる。 「思い出せ」  ——なんだっただろう—— 「忘れないぜ」  ——何を……? —— 「|嘆《なげ》きの声が……」  ——誰の? ——  絶叫するボーカリストの顔に、女の顔が重なった。  知っている。  どこかで、会ったはずだ。  記憶にない顔なのだが、感性がそう主張する。  ステージにも衣装にも、まるで|填《は》まらない古風な女の顔。息を飲むほど美しい顔だった。一度見ればすれ違っただけでも、記憶に残りそうだ。  だが、顔だけの記憶でしかない。どこで会ったのか、どんなふうに見たのか、|些《さ》|細《さい》な背景すら浮かんでこない。 「覚えて——」  ——くそう! ——  どうしても、思い出せない。  |咽喉《の ど》まで出かかっているのに。 『|何故《な ぜ》、思い出さぬ。……ともに過ごしたではないか』  重い音をバックに澄んだ女の声が響く。 『そなたが必要じゃ。……そなたの力と、その|器《うつわ》が……』  どこか悲しげな声が、心に|沁《し》みこんでいく。  ——必要? —— 『そうじゃ。そうするが、そなたの運命。……そなたの使命じゃ。この時にそなたが生まれ落ちたも、そのためと知れ』  ——そうか——  女の顔が|艶《あで》やかに|微笑《ほ ほ え》む。  ひどく|魅《ひ》きつけられた。 『何故|拒《こば》む』  ——拒む? 誰が? —— 『そなたが……』 「竜憲!」  誰かが耳もとで叫んだ。  女の声が|掻《か》き消える。 「あ?」  部屋には聞き慣れた曲が渦巻いていた。 「え……」  画面も元に戻っている。  まじまじとその画面を見つめた竜憲は、ゆっくりと顔を上げた。 「ああ、|親《おや》|父《じ》か……」 「|馬《ば》|鹿《か》もの!」 「なんだよ」 「気づかんのか!? この大馬鹿もの!」  |怒《ど》|鳴《な》りつけ、|殴《なぐ》りかからんばかりの勢いで、テレビを消す。 「やすやすと引っかかりおって!」 「あ……と……」  頭がぼうっとして、父親の言葉の意味が飲み込めない。  ステレオの音量に負けじと叫ぶ父親を、|唖《あ》|然《ぜん》と見上げながら、竜憲は半分無意識にステレオのリモコンに手を伸ばしていた。 「情けない|奴《やつ》め! そんなことだから——」  部屋を満たしていた音が突然消え、父親の怒鳴り声も妙な具合に途絶える。  世に名だたる|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》、大道寺忠利が、気まずげに|咳《せき》|払《ばら》いをした。 「こんなことになるのだ」 「こんなこと? ……あ、そうか」  ようやく、父親の言葉の意味が理解できる。どうやら、ビデオのせいで妙なこと[#「妙なこと」に傍点]になっていたらしい。 「はまってたのか……俺」 「まったく……情けない。それでもわしの息子か」  口から飛び出しかける反論を、どうにか飲み下し、竜憲は肩を落とした。 「だよな……かあさんにも言われた。修行しなさいって……」  できるかぎり殊勝な顔をしてみせなければ、これ以上の話を相談できそうにない。  それにしても、ずいぶんやすやすと|暗《あん》|示《じ》にかかったものだ。父親に言われるまでもなく、情けないのは自分が誰よりよく知っている。 「そういう問題ではない。ようは心の|隙《すき》が……」  言いかけて口を|噤《つぐ》んだ忠利は、|椅《い》|子《す》を引き寄せ、腰を下ろした。 「そんな話はあとでもよい。……もっと、大事な話だ。いまの事とも関係はあるのだがな」  きょとんと目を見開いた竜憲を、父親は真剣な顔で|見《み》|据《す》える。 「そのまえに……これはビデオだろう?」 「ああ、そうだけど」 「しばらくは見るな。わかっているだろうが、音楽のなかには、人の精神を|鎮《ちん》|静《せい》するものと|刺《し》|激《げき》するものがある。お前のように不安定な状態で、|高《こう》|揚《よう》作用のある音を聞いていたら、簡単に|入神《にゅうしん》してしまうぞ」 「入神……って。トランス状態ってやつか?」 「そうとも言うな。とにかく少しは考えろ。この部屋の状態は普通ではなかったぞ」 「ずっとだもの……いまさら……」  |呟《つぶや》いた竜憲を、忠利が|睨《にら》む。 「わかっているのか? お前はわしなどより、|遥《はる》かに天分に恵まれておる。……お前が見つけてくるものは、何であろうと一種特殊な力を秘めたものばかりだ。それこそ音楽だろうが、絵だろうが、人だろうが、すべて。……そうした力を|嗅《か》ぎ分ける能力は、修行で得られるものではないのだ。天分というものなんだぞ。——それと同じに、声のない声も聞こえているはずだ。耳を澄ませば、大地の声でも風の声でも、聞こえるだろう? お前には……」 「|挙《あ》げ|句《く》に|妖《よう》|怪《かい》まで……か?」 「ああ、聞いたぞ。鴻が心配しておった」 「ほんとかよ。……笑ってたぜ、あいつ」 「話をはぐらかすな!」 「すみません……」  殊勝に|謝《あやま》り、心の中で|舌《した》を出す。  父親の言葉がいつもの説教になって、竜憲は少しばかり安心していた。  鴻から話を聞いたうえで、こうしているのなら、さほど|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》なことではないのだろう。すくなくとも、異常な状況からは抜け出せるはずだ。 「まぁいい。……いまさら言ったところで仕方がないことだからな」  そう言ったきり、忠利は深い息を|吐《は》いた。どうやら、説教のほうも終わりらしい。竜憲は|密《ひそ》かに胸を|撫《な》で下ろした。  とはいえ、しばらくの間、気づまりな沈黙が続く。  やがて、父親が口を開いた。 「竜憲。これから言うことをよく聞けよ」 「はい」 「……わしがよいというまで、|鎌《かま》|倉《くら》から出るな」 「何?」 「一歩たりとも出てはならん」 「……学校は?」 「行かんでよい。世に|禍《わざわい》を振り|撒《ま》くわけにはいかん」 「……おい……|親《おや》|父《じ》……そんなに大事なのか?」  恐る恐る聞いた竜憲に、忠利は|厳《いか》めしい顔で|頷《うなず》いた。 「|律《りっ》|泉《せん》の倉に|納《おさ》められた鏡には、|邪《じゃ》|悪《あく》なものが封じられていたのだ。……かつて都を恐怖に|陥《おとしい》れた|魔《ま》|物《もの》がな」 「都って……」 「言い伝えによれば、|飛鳥《あ す か》の昔から……」 「おい待て、親父。そんな|馬《ば》|鹿《か》げた話を……」  |大仰《おおぎょう》に|咳《せき》|払《ばら》いをし、忠利は言葉を続けた。 「ということになっている」 「なるほど……。親父もそれは信じていないわけだ」 「だが、律泉と大道寺の家が、ここに移り住んだ時にはすでにあったのもたしかなのだ」 「古いものには違いがない?」 「そのとおりだ」 「わかったよ。……出なければいいんだろ。それくらいなら、守れるさ」 「軽々しく言うな。よいか、わしはこの数日かけて|結《けっ》|界《かい》を張ったのだ。|封《ふう》|印《いん》の|解《と》かれた魔物を、外に出さぬために。しかし、それも人の内に|潜《ひそ》んだ者を|阻《はば》むことはできない」 「て、ことは……」 「……お前次第ということだ。今夜のようにやすやすと|操《あやつ》られるようでは、とても|敵《かな》わぬ約定だぞ。わかっておるのか?」  ごくりと|咽喉《の ど》を鳴らし、消えたテレビと父親の顔を見比べる。  それから、竜憲はゆっくりと頷いた。 「できるかぎりの手は尽くす。……いまの世の中では|破《は》|邪《じゃ》の修法を、|施《ほどこ》すことも少ないからな」 「どうなるかわからないってことか?」 「そのとおり。冷たいようだが、その時は……」 「命がない?」 「お前とともに封じ込む」  きっぱりと言い切った父親を、竜憲はまじまじと|見《み》|据《す》えた。  ようやく頭がまともに回り始める。  鴻に話を聞いたというのは、竜憲の内に入り込んだ魔物のことなのだ。|柔《やわ》らかな物腰の、笑みを|絶《た》やさない男は、彼に|取《と》り|憑《つ》いた魔物を見破ったのだろう。 「……そうか……。そうだよな。……まったく……」  声を殺して笑った竜憲は、|唇《くちびる》を引き締めて背筋を伸ばした。 「何が取り憑ているのか……。|親《おや》|父《じ》には見えるのかな? 俺には何がなんだかまるっきりわからない。取り憑かれたらしいっていうのも、確信がないんだ」  ゆっくりと首を振った父親は、|床《ゆか》に下りると居住まいを正した。  胸の前で|印《いん》を結び、低く|真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》える。  いままでにも、父親が術を使う場面に何度か立ち会ったことがあった。|物《もの》の|怪《け》に取り憑かれた人間は、真言から逃れようと、身を|捩《よじ》り苦痛に|呻《うめ》くものだ。  しかし、竜憲はなんの異常も感じなかった。  真剣な視線を注がれるのが、|居《い》|心《ごこ》|地《ち》が悪いといった程度だ。それも、父親の唱える真言の意味すらわからない自分が情けないからであり、こんな事態を引き起こしたことへの、後悔である。  自分の力を過信していたために、一人の人間が命を失ったのかもしれない。 「……聞け!」  |一《いっ》|喝《かつ》され、びくりと背中を|痙《けい》|攣《れん》させた竜憲は、ベッドから下りると父親の正面に正座した。  父親の顔色が悪い。  疲れていると言った母親の言葉を思い出す。  常なら精力的な、|脂《あぶら》ぎった印象さえ与える壮年の男が、妙に|枯《か》れている。|沙《さ》|弥《や》|子《こ》が解放してしまい、竜憲がその身の内に|潜《ひそ》ませた|魔《ま》|物《もの》を閉じ込めるために、|結《けっ》|界《かい》を張ったと言っていた。  いつもなら、四方で印を結ぶだけで終わる作業が、どれほど労力を使うものになったか、父親の顔を見るだけで想像できた。 「……そこまでみくびったものではなかったようだな」  印を|解《と》いた父親が、力なく笑う。 「鴻が見えぬというからには、それなりのものだと思っていたが……。お前は選ばれたのだ。ぴったりと、その身に重なって、分けて見ることもできん」 「どういう意味だ? 彼女が……彼女ってのも変か。とにかく、この中の|化《ば》け|物《もの》は、俺を選んだのか?」  自分の胸を示す竜憲に、忠利は|眉《まゆ》を寄せた。 「彼女……ということは、女なのか?」 「見た目はね。さっき、画面に重なって見えたのは、女だった」  |眉《まゆ》を寄せた忠利が、立ち上がる。 「明朝六時、道場に来るがいい。……それまでは、余計なことはするな。本を読むのも、ビデオも、とにかくお前が選んだものを見ることも聞くこともするな。……それまで、自分を保っていられれば、あるいは……」  言葉を途切れさせた父親は、くるりと背を向けて部屋を出ていった。  その背を見送り、竜憲は肩をすくめる。  息を殺すようにして親子のやりとりを見守っていた|妖《よう》|鬼《き》どもが、いっせいに笑い始めた。 『あれが大道寺忠利か? あれが当代一の|陰陽師《おんみょうじ》か……』 『|哀《あわ》れよの。あれが陰陽の|頭《かみ》か。お方様を見ることもできぬとは。情けなや……』  腕らしきもので顔を|覆《おお》った|化《ば》け|物《もの》が、|弾《はじ》かれたように|嗤《わら》う。  彼らが|闊《かっ》|歩《ぽ》した時代。人間は対抗する手段を持っていたのだろう。そして、真に力のある者が、彼らを|封《ふう》じた。  ところが、その|封《ふう》|印《いん》が|解《と》かれた時代には、術は伝承されていなかったのだ。  いまや、人間の敵は人間だけになっている。  |闇《やみ》や|獣《けもの》。自然すべてが人間の前に立ちふさがり、絶大な力を|誇《ほこ》っていた時代、人間はその怒りを買わないように、注意深く動いていた。しかし、それらを制圧する手段を持つと、恐怖を忘れたのである。  勝てる見込みがあるのか。  |己《おのれ》の中の敵を思い、竜憲は固く目を閉じた。     第五章 |破《は》|邪《じゃ》の法      1  |執《しつ》|拗《よう》に|磨《みが》きこまれた板張りの|床《ゆか》が、ぼんやりと光っている。外はまだ薄暗いが、|闇《やみ》に慣れた目には充分な明るさを持っているのだ。  二十畳ほどの道場には、|竜憲《りょうけん》と|忠《ただ》|利《のり》。そして|鴻《おおとり》が座っている。  この道場に鴻が入るのは、ずいぶんと久しぶりだった。 「……わざわざ足を運んでもらって、すまなかったな」  長い髪をまとめもせずに総髪に流した男は、深く頭を下げた。 「この大事に声をかけていただき、光栄です。およばずながら、お力になれればと参上いたしました」  忠利のそばにいれば、その|技《わざ》を修得できるが、同時に|枠《わく》を|嵌《は》められることにもなる。|己《おのれ》を|超《こ》える才能があると認めた忠利は、彼をそばにおかなかったのだ。 「何が見える? わしには竜憲の気と混じり合って、判然とせんのだ」 「いまは、私にも見えません。……おそらく、より|融《ゆう》|合《ごう》したのでしょう。昨日お会いした時は、半分ほどずれていたのですが……」  目の前に竜憲をおいて、鑑定する二人の|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》。自分が|怨《おん》|念《ねん》のこもった|壷《つぼ》にでもなったような気がして、竜憲は|眉《み》|間《けん》に|皺《しわ》を寄せた。 「……引き|剥《は》がせると思うか?」 「やらねばなりますまい。このまま|破《は》|魔《ま》の術を使えば、竜憲さんの命も失われましょう。それも、悪くすれば魔物は|逃《のが》れて、竜憲さんだけが……」 「やはり、そう思うか?」 「はい」 「引き剥がせればよし。それもできねば、破魔の術も|効《こう》がないか」  病人をまえに、平然と死を宣告するようなものだ。  しかし、自分の命のことを語られているにもかかわらず、竜憲には現実感はない。そもそも、|取《と》り|憑《つ》かれているという実感がないのだ。  二人の霊能者が顔を|揃《そろ》えているのに、道場に|溢《あふ》れている|妖《よう》|鬼《き》の存在が、異常な事態であることを教えてくれる。  竜憲にまといつくのに|飽《あ》きたのか、鴻の背後に回った影が、その髪に手を伸ばす。だが、指が触れたとたんに、けたたましい絶叫を上げて燃え上がった。  竜憲などとは、|桁《けた》が違う。  力を使ったようには見えなかったのだが、妖鬼たちは警戒の|唸《うな》り声を上げている。昨夜はあれほど|嘲《あざけ》っていた忠利にも近寄れないらしい。  妖鬼たちがうるさいほど騒ぎ立ててはいるが、二人の|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》は完全に|黙《もく》|殺《さつ》していた。 「竜憲。|鎌《かま》|倉《くら》から、一歩も出てはならん。……けっしてな。昨夜のように、不用意なものを聞いて|入神《にゅうしん》してはならぬぞ。そうなれば、|魔《ま》|物《もの》の|器《うつわ》たるお前を止める方法は一つしかない」 「わかってる。……で、今日は、なんでこんなところに……」  昨夜聞いた話を繰り返されても、竜憲には対処のしようがない。彼にできることといえば、入神、つまりトランス状態に|陥《おちい》らないように、極力気をつける程度だ。 「確かめたかったのだ。……ここにお前が入れるか。何か感じなかったか?」  特殊な|結《けっ》|界《かい》を張っていたのだろう。竜憲だけが中に入り、魔物は取り残されることを期待していたのかもしれない。  しかし、その|目《もく》|論《ろ》|見《み》は失敗したとしか言いようがなかった。 「何も……。残念だけど、気が重くなりもしなかった」 「そうか……」  重々しく|頷《うなず》いた忠利は、視線を鴻に転じた。 「方法はあるがな。妖鬼どもを|蔓延《は び こ》らせぬことばかり考えておって、時期を失くしたようだ。まさか、こいつが魔物の器になるとは考えていなかった。……一生の|不《ふ》|覚《かく》だ」 「竜憲さんの持つ力が、魔物と引き合ったのでしょう。自分を見失わないかぎり、危険はないように思いますが……」 「それもいつまでか。この|馬《ば》|鹿《か》息子は、わざわざ入神するような音を聞いておった。一度取り込まれれば、二度と目覚められぬだろうに」 「仕方ありますまい。このような|魍《もう》|鬼《き》どもでも、つねに付きまとわれていたのでは、疲れましょう。……そういえば竜憲さん。この魍鬼は鏡の魔物が|取《と》り|憑《つ》いてからずっと、付きまとっているのですか」  |抑《よく》|揚《よう》のない声で語る男に、竜憲は精いっぱい悪意のない|笑《え》みを浮かべた。  人の命がかかっていることなど、なんとも思っていないようだ。自分が印した|護《ご》|符《ふ》が役に立たず、|魔《ま》|火《び》に焼き殺された娘のことなど、|綺《き》|麗《れい》に忘れているとしか思えない。 「……魍鬼ね。……そう。ずっとだよ。かあさんか、|大《だい》|輔《すけ》がそばにいないかぎり、寝ている間でも、枕元で騒いでいる」 「大輔……。ああ、あの青年ですね。魔火に襲われた方の友人とかいう」 「そう。魔火に殺された|美《み》|香《か》の知り合い」  わざわざ言葉をつけ加えてやる。  彼がすべて悪いなどと思っていない。それでも、|詫《わ》びてみせる程度の人間らしさがほしかった。  ところが、鴻は|皮《ひ》|肉《にく》にも気づかないように、口もとだけの|笑《え》みを見せる。 「あの青年はどういう家の方ですか」 「父親はただのサラリーマン。たしか、|静《しず》|岡《おか》の出身だとかいっていたな。……その前は知らないが、血筋としては武家だと思う。本家にある家系図が|清《せい》|和《わ》|源《げん》|氏《じ》に|繋《つな》がるとか言っていた」 「清和源氏ですか……」 「江戸時代に家系図をでっちあげたんだといって、|爺《じい》さんに|怒《ど》|鳴《な》られたそうだ。——うちは違うってね」  十中八、九|嘘《うそ》だといわれる清和源氏の|末《まつ》|裔《えい》。だが、すくなくとも武家であることはたしかだろう。つまり、刀の力で地位を保ってきたということだ。 「血筋は関係ないんじゃないの? かあさんも|陰陽《おんみょう》とは関係のない家だったんだろ」 「そうだ。……だが、|魔《ま》を|退《しりぞ》ける力は、誰より|優《すぐ》れていた」  忠利のほうは、|護《ご》|符《ふ》の力が血筋と関係しているとは思っていないようだ。それでも、鴻は|納《なっ》|得《とく》していない。  わずかばかり|眉《まゆ》を寄せて、周囲を|蠢《うごめ》く|妖《よう》|鬼《き》たちを|見《み》|据《す》えている。  彼らから声にならない声を聞き取ろうとしているのだろう。どうして大輔に興味を持ったのかわからないが、調べたいことがあるようだった。 「彼の力は、奥様のものとは少し違うような気がします。……先生はどうお考えでしょうか」 「|姉《あね》|崎《ざき》くんか。……たしかに魔を退けるようだが、彼のほうがはっきりと力[#「力」に傍点]だな。|真《ま》|紀《き》|子《こ》はいなくなるのだ。連中にとっては、目の前に壁ができたも同然で、彼女がいることさえわからないのかもしれない。だが、姉崎くんは近寄せないらしい。……どうだね? 君の見立ては?」 「先生がおっしゃるとおりだと思います。しかし、それだけではないような……。ひょっとすると、彼が横にいたからこそ、竜憲さんに|取《と》り|憑《つ》いたものは、半分ずれていたのではないでしょうか。——ただの思いつきですが」  重々しく|頷《うなず》いた忠利は、竜憲に目を転じた。 「つくづく、お前は真に力のあるものばかり、選ぶようだな。……彼には悪いが、ここに足を運んでもらうしかないだろう。わずかでもずれていれば、破魔の術を|験《ため》すこともできよう。このままでは、わしらには手出しできん」  いざとなれば、息子を殺さなければならないということを心配しているのか。それとも、息子を殺しても、|肝《かん》|心《じん》の魔物を|退《たい》|治《じ》できないことを|危《き》|惧《ぐ》しているのか。  どうも後者のような気がしてならない。  忠利は|陰陽《おんみょう》を現代に伝える家系の責任を考えているのだ。  ひがみかもしれないと思いながらも、竜憲は父親をそこまで信用していなかった。  世間で言う甘い親などというものが、本当にいるとは思えない。  彼の父親は、大勢のためなら息子など簡単に切り捨てるような男だったのだ。  大時代な男だ。  |霊《れい》|能《のう》などという特殊な能力を持っているだけに、自分がやらねば、ほかの誰にも始末ができないという自覚があるせいだろう。  竜憲にしても、自分に|取《と》り|憑《つ》いたものを世の中に放つ気はない。  しかし、むざむざ殺されるのはごめんだった。      2  父親が道場を出ていってずいぶんになる。  電気の引かれていない道場には、|和《わ》|蝋《ろう》|燭《そく》が数本、高足の|燭台《しょくだい》の上で揺らめいている。それが、|唯《ゆい》|一《いつ》の照明だ。  |蛍《けい》|光《こう》|灯《とう》の照明に|慣《な》れた目には、少しばかり頼りない|灯《あかり》だが、この特別な道場を演出するには充分過ぎる効果がある。ただでさえ広い道場が、余計に広く感じられた。そのうえ、目の前に座っているのは、|鴻《おおとり》一人。  |黙《だま》っているのが、ひどく気づまりだ。  といって、話題もない。  いや、あることはあるのだが、いまより気分の|滅《め》|入《い》る話題しかないのである。  何を考えているのか、鴻は視線を|竜憲《りょうけん》に|据《す》えたまま、黙り込んでいた。  もっとも、なんとはなしに想像はつく。おそらく彼が見ているのは、自分ではなく、姿が確かめられないという|妖《よう》|怪《かい》だ。 「|親《おや》|父《じ》は……自分の力より、あんたのほうを信じてるのかな」  ぼそりと|呟《つぶや》くと、鴻の視線が竜憲に戻ってくる。  自分を|透《す》かし見るような視線から解放されて、竜憲はほっと息を|吐《は》いた。 「そうでしょう」  少しだけ間をおいたものの、|臆《おく》|面《めん》もなくそう答える男を、竜憲はしげしげと|眺《なが》めた。その力を認めるにしても、こういうところが鼻につくのだ。  長い間、顔を合わせることもなかったのに、まるで印象が変わらないのは、この|雰《ふん》|囲《い》|気《き》のせいだろう。 「そのあんたでも、あの|魔《ま》|火《び》のことはわからなかったわけだ」  この話題に触れたくないから口を|噤《つぐ》んでいたのだが、つい、|皮《ひ》|肉《にく》の一つも言ってやりたくなる。 「はい。ただの魔火ではなかったようですね」  まったく動じないところが|憎《にく》らしい。 「それだけ?」 「いえ、少し後悔しているのです」  思わぬ言葉が付け足されて、竜憲は少々|面《めん》|喰《く》らった。 「私が出向いていれば……。何より、お話だけでただの魔火と断じてしまったために、ここまで大事になってしまいました。この目で確かめていれば、ただの魔火でないことはわかったはず。……何かあったらなどとは言わずに、あの時に聞いておくべきでした。——何しろ、私には|貴方《あ な た》に|取《と》り|憑《つ》いた者が見えたのですからね」 「どういう……意味なんだ。それは……」 「あれは、貴方がその娘さんの家に出向いたから起こったことです」  そうだろうとは思っていても、他人から、しかも有能な|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》から断じられるのは、相当に心が痛む。  が、顔を|顰《しか》めた竜憲を、鴻は顔色一つ変えずに、感情の読めぬ目で見つめている。 「なんでわかる?」 「笑っていたんですよ」  目を|瞬《しばたた》かせた竜憲は、鴻を|眺《なが》め、|溜《た》め|息《いき》を|吐《は》いた。  誰が笑っていたのかと思うと、質問する気にもならない。なんといっても、そんなことで結論を出すこの男の神経も理解し難かった。 「もう……いいよ。——だけど、そんなこと|大《だい》|輔《すけ》に言ったら、あいつ|臍《へそ》|曲《ま》げて絶対協力しないぜ」 「そうでしょうか」  男がにっこりと|微笑《ほ ほ え》む。  その端正な顔はたしかに|笑《え》みを浮かべていたが、|虹《こう》|彩《さい》が見えぬほど黒い|瞳《ひとみ》は、いささかも笑っていなかった。  不意に|蝋《ろう》|燭《そく》の炎が揺らめく。  風もないのに大きく揺れた炎が、鴻の顔に奇妙な影を作った。  それが、大きく|歪《ゆが》み、|膨《ふく》れ上がる。 『こんな男を信じるか?』  黒い影が|囁《ささや》く。 「お前らよりは、信じられるさ」  にやりと笑った竜憲に、鴻は|眉《まゆ》を引き上げた。  同時に影が消え失せ、蝋燭の炎が元に戻る。 「力が増しているようですね。この|結《けっ》|界《かい》の中で、こうまで勝手をされたのでは、立つ瀬がありませんな」  そういうわりには、何かするというつもりはないようだ。 「こんなことは初めてだ」  竜憲にというより、自分に言い聞かせるためらしい。小さく首を振った鴻は、指先を|顳※[#「※」は「需」+「頁」Unicode="#986c"]《こめかみ》に当て、竜憲を正面から|見《み》|据《す》えた。  こんなふうに観察されるのは、どうも|居《い》|心《ごこ》|地《ち》が悪い。それこそ、|尻《しり》がむずむずしてくるようだ。  しばらくは|我《が》|慢《まん》できたが、そのうちに勝手に口が開いていた。 「何か見えた?」 「いえ。……ここまで気が強くなっているのなら、逆に見えるかもしれないと……ね。そう思ったんですが。やはり、無理ですね」  肩を落とした鴻を|眺《なが》め、竜憲は立ち上がった。 「どちらへ?」 「|親《おや》|父《じ》の様子を見に。……遅すぎると思わない?」 「それでしたら……」 「いいよ。どうせ、ここの|結《けっ》|界《かい》は役に立ってないんだろ?」 「まさか……そんなことはありませんよ。結界の中だから、これですんでいるのです」 「|嘘《うそ》だろ——」  鴻の前から一歩|退《しりぞ》いた竜憲の言葉が、飲み込まれる。  彼からわずかに歩幅分離れただけで、周囲に集まる|幽《ゆう》|鬼《き》の数が倍増したのだ。これでは彼の言葉を信じるしかないだろう。  すごすごと元の位置に座り直した竜憲は、不満げに鴻の顔を眺めた。 「どういうことさ」 「気づいているからですよ。我々が何をしようとしているか」 「……まさか、家じゅうがこんな調子ってことか?」 「たぶん……」 「てことは……」  自分のことに|紛《まぎ》れて忘れていたが、この家には|沙《さ》|弥《や》|子《こ》もいる。 「まずいじゃないか。沙弥子はまだこの家にいるんだ」  竜憲は飛び上がるように立ち上がった。  母親は何があろうと|大丈夫《だいじょうぶ》だろうが、沙弥子はそうはいかないだろう。すくなくとも、彼女には見えてしまうのだ。 「彼女なら……」  鴻の言葉など無視して、竜憲は道場の|扉《とびら》に向かった。  一歩進むにつれ、黒い影が|湧《わ》き出し、一歩進むと、それらがただの影から形を持つものに変わっていく。  さらには、竜憲に近づいて、楽しげに問いかけてくる。 『気が変わったか?』 『恐ろしくなったのだろう』  耳鳴りがするほど、大声で笑い出す者もいれば、背筋が|粟《あわ》|立《だ》つような声が耳もとで|囁《ささや》いたりする。 『あきらめろ、あきらめろ。……つまらぬことをすれば、皆死ぬぞ』 『言っただろう? お前の|親《おや》|父《じ》など、クソの役にも立たんわ!』 「うるさい! 黙れ!」  一瞬、騒ぎが治まる。  大きく息を|吐《は》いた竜憲は、目の前の|扉《とびら》に手をかけた。  と、ほとんど同時に、扉が開かれる。 「——どこへ行くつもりだ」  |忠《ただ》|利《のり》だった。  その顔を見たとたんに、頭の中が冷静になる。 「……どこって……サコが……」 「ああ、あの娘なら|大丈夫《だいじょうぶ》だ。|真《ま》|紀《き》|子《こ》と一緒にいる」  気が抜ける。 「かあさんと……なら大丈夫だ……」 「あれほど……軽々しく行動するなと言っただろう……」 「ごめん」  ようやくに応じ、竜憲は父親に背を向けた。  |幽《ゆう》|鬼《き》たちが残念そうに|嘆《たん》|息《そく》するのが聞こえる。小声で|文《もん》|句《く》を並べ立てる|化《ば》け|物《もの》を|睨《にら》み|据《す》えると、先に立って歩き出した。  どうも、おかしい。  そんなことぐらい少し考えればわかることなのだ。父親のすることに、その程度のぬかりがあるはずがない。  にもかかわらず、そのほんの少しが考えられないのである。  普段なら、けっしてしないことだろうに。 「申し訳ございません。私がついていながら」  珍しく|狼《ろう》|狽《ばい》した顔で頭を下げる鴻に、心の中で|舌《した》を出してみせた竜憲は、元の場所に座り直した。  忠利が座り、鴻も|膝《ひざ》を折る。 「すまんな。電話をするだけにずいぶんと手間どってしまった」  ぼそりと口を開いた忠利の表情が、ひどく硬い。  鴻の言うとおり、この家は|化《ば》け|物《もの》屋敷と化しているらしい。道場から一歩外に出た時の状況を想像して、竜憲は|眉《まゆ》をひそめた。 「まぁよい。……|姉《あね》|崎《ざき》くんは来てくれるそうだ」  それだけ言うと、忠利は黙り込み、目を閉じた。 「|大丈夫《だいじょうぶ》か。|親《おや》|父《じ》……。顔色が悪いぞ」 「お疲れなだけです。……少し休まれれば……」  口を|挟《はさ》んだ鴻の言葉にわずかに|頷《うなず》いた忠利を、竜憲はじっと見つめ続けた。  理由のわからない不安が、込み上げてくる。  気分が悪い。 「竜憲さんこそ大丈夫ですか?」 「え……あ、平気だよ」  |慌《あわ》てて応じて、忠利から目を|逸《そ》らす。  ここまで疲れた父親を初めて見る。自分の父親なのだから、そう若くないことはわかりきっているのだが、無茶な修行を繰り返して|鍛《きた》えているせいか、ぎらついた精気をみなぎらせる男だった。  ここ数日の間に、|十《とお》は|老《ふ》けこんでしまった。 「鴻さん。大輔は|心《しん》|霊《れい》現象とか、超常現象とかはまるで信じないから。一応覚えていてくれるかな。|不《ぶ》|作《さ》|法《ほう》は目を|瞑《つぶ》るということで……」 「……わかりました。あれほどの力で|魔《ま》を排し続けていれば、何も見えないでしょうしね」  |穏《おだ》やかな|笑《え》み、というべきなのだろうが、表面だけの笑みを浮かべた鴻は、竜憲を|見《み》|据《す》え続けている。まるで視線で彼の内に入り込んだ魔物を|封《ふう》じようとするかのように。  おそらく、その思いつきは正しいのだろう。  |墨《すみ》のように黒い|瞳《ひとみ》が、まっすぐに自分の内側を見つめ、威圧している。 「この中にいる|奴《やつ》が見える?」 「……はい」 「だんだん、向こうのほうが強くなっているんじゃないのか?」 「どうして、そう思われるんですか?」 「……ボケてるから」  簡単に言い切った竜憲は首をすくめて笑った。 「竜憲……。それはどういうことだ」  自分が|一《いち》|目《もく》置く|弟《で》|子《し》に向かって、息子が|噛《か》みつくのを平然と見守っていた忠利が、|沈《ちん》|鬱《うつ》な顔を向けた。  さすがに、竜憲が鴻を|嫌《きら》っているのは、知っていたようだ。  だが、年の離れた兄に反抗する弟とでも思っているのだろう。実際には、背筋に|粟《あわ》が立つほどいやなのだ。生理的|嫌《けん》|悪《お》|感《かん》に近いのかもしれない。  いままで、|苦《にが》|手《て》ではあったが、ここまでひどい反応はなかった。これも内に入り込んだ者の影響なのだろうか。 「……さっき、サコが心配だって思ったら、もう何も考えられなかった。それでどうなるか、なんて考えもしなかったんだよ。……さすがにそこまで|馬《ば》|鹿《か》じゃないと思っていたんだけどね」  |苦《にが》い顔で|頷《うなず》く忠利は、ゆったりと手を差し上げて、指の間から|透《す》かすようにして息子を見据えた。  これといった動きも見せずに|魔《ま》|物《もの》を見る鴻に比べると、その|仕《し》|種《ぐさ》はいかにも|芝《しば》|居《い》がかって見える。能力が違うのだろう。 「で、どうなの? 俺が消えて、えらい|綺《き》|麗《れい》な女が見えるんじゃないの?」 「そうですね。……女性なのか、まだわかりませんが。顔立ちは見えるようになっています」  確かめるように忠利に視線を移す。 「そうだな。……女だ。……竜憲、この|妖《よう》|鬼《き》どもは、女のことをどう呼んでいる?」 「お方……かな。ああ、そういえば、サコの家の|式《しき》|神《がみ》に追い払われたとき、この女が、自分のことを神だと言っているとか言ってた」 「|律《りっ》|泉《せん》の式神?」 「そう。律泉に|仇《あだ》なすものは近づけないとかいって、えらい剣幕で追い返されたよ。……サコん|家《ち》が冷えるのはそのせいもあるだろうな」 「どうしてお前は……」  大きく息を|吐《は》いた忠利は、目の前で小さく|印《いん》を切った。 「……そう考えが足りぬのだ。それを鴻に話すなり、昨夜のうちにわしに話すなりしない。お前が魔物というからには、魔だと思っていたが……」 「魔物だろう。自分のことを神と名のるほどの力がある魔物。……違うのか?」  互いに顔を見合わせた二人の|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》は、どちらからともなく立ち上がると、竜憲の左右に座り直した。 「なんだよ。……いったい……」 「静かにしろ。……万が一……。あってはならぬことだが……」  いままで、術らしい術を使っているようにも見えなかった鴻までが手を上げて、竜憲の内に|潜《ひそ》む者を見透かそうとしていた。  |呪《じゅ》|文《もん》もなければ、印を結ぶわけでもない。  ただ、手をかざすことによって、|己《おのれ》の視野をふさぎ、奥にあるものを見ようとしている。 「心当たりがあるのか? サコの家の式神に何が伝わっていたんだ?」 「それとは関係ない。……静かに、座っておれ」  無言で竜憲を見据える二人のまわりに、妖鬼たちが飛びかかろうとする。  しかし、|狭《せま》い|結《けっ》|界《かい》の中では、その力は半減しているのだろう。ぶざまな叫び声を上げては|弾《はじ》き飛ばされ、燃え尽きるものまでいた。  どこから|湧《わ》いてくるのか、道場にこもってから二人に消された|妖《よう》|鬼《き》は百を下らないだろう。それでも、いっこうに減ったような気がしない。  |肉《にく》|屑《くず》のような赤い|鬼《おに》が、忠利の首に|爪《つめ》を立てようとした。ところが、爪が触れるまえに血色の腕が、ぼとりと落ちる。|泡《あわ》を|噴《ふ》いて、|溶《と》けるように縮んでゆく|己《おのれ》の腕を見下ろし、鬼の顔が|驚愕《きょうがく》に|歪《ゆが》む。  |魔《ま》|物《もの》でも痛みを感じるのか、すっぱりと切れた腕を腹に|抱《かか》えて、鬼はのたうち始めた。  |床《ゆか》を|転《ころ》がる身体が、忠利に触れる直前で、|灰《はい》になった。  騒々しい。  耳に聞こえる音ではないが、黙っていると妖鬼たちがたてる音や、声が、わんわんと頭の中で|谺《こだま》する。  耳をふさいでも仕方がないのだ。  人と話すしかない。  精神に聞こえる音より、実際の音のほうが優先される。  この奇妙な音から|逃《のが》れるために叫んでやりたいところだったが、二人の男は、真剣に竜憲を|見《み》|据《す》えているのだ。  己を救うために必死になっていることはわかっている。|邪《じゃ》|魔《ま》になるとわかっていながら、どうしても、妖鬼たちの声を|遮《さえぎ》りたい。 『……そうじゃ。約束しよう。お前の|器《うつわ》をくれれば、百の年、わしらはおとなしくしていよう。悪くはなかろう。どうじゃ?』 『お方様に頼んでしんぜようぞ。……器を寄こせ』 『この二人には手を出さぬ。約束じゃ』 『約束するぞ』 『どうじゃ』 『承知か?』 『それしかあるまい。こやつらには、何もできぬぞ』 『承知か?』 『どうじゃ。……承知か?』  耳鳴りのような音を、声として認識してしまうと、その言葉が届き始める。  頭の中に|谺《こだま》する|囁《ささや》き。そして|脅迫《きょうはく》。  |騙《だま》されてはいけない。  耳を傾けてもいけない。  わかってはいても、つい答えたくなる。  叫んで、黙らせられないのなら、なんでもいい。頭の中で承知すれば、それだけでこの声が消えるとわかっている[#「わかっている」に傍点]。 『……そうじゃ。何も|不《ふ》|都《つ》|合《ごう》はないぞ』 『器をよこせ』 『お方様が待っておられる』  声が、甘く|囁《ささや》く。  歯を食いしばった竜憲は、必死で否定しようとしていた。  教訓は、昔話にいくらでもあるではないか。  |魔《ま》|物《もの》の囁きに負けて、朝が来る前に|扉《とびら》を開けてしまった、|愚《おろ》かな男。自分はいま、同じ立場にあるのだ。心の中の扉を開けてはいけない。  いけない。  すべてを否定しなければならない。  それだけを、考え続けなければ……。  突然、扉を引き開ける音が響く。  同時に、竜憲はその場に倒れ込んだ。      3 「……恐ろしいほどの力をお持ちだ……」  |蛇《へび》が話している。 「そんなことより、こいつはいったい……」 「あなたのお|陰《かげ》で、|苦渋《くじゅう》から解放されたのですよ……。心配には及びません」  真っ白な頭に、|漆《しっ》|黒《こく》の目を|貼《は》りつけた蛇が、ゆったりと|鎌《かま》|首《くび》を持ち上げて、笑っていた。 「リョウ! お前、どうしちまったんだ?」  |頬《ほお》を乱暴に|叩《たた》かれて、|竜憲《りょうけん》はゆっくりと目を開いた。  |鴻《おおとり》が|覗《のぞ》き込んでいる。頭を支えているのは|大《だい》|輔《すけ》だった。  この男が現れた瞬間に、あれほどいた|妖《よう》|鬼《き》がすべて消えたのだ。極度に緊張していた精神が、瞬時に解放されて、気を失ってしまったらしい。 「……悪い……」  起き上がろうとする竜憲の肩を、大輔が支える。そして、用心深く、ゆっくりと手を放して言った。 「|大丈夫《だいじょうぶ》か?」 「傾いてるか?」 「いや。今度は大丈夫だ」  妙なことを覚えているものだ。  顔を見合わせて笑う竜憲と大輔に、|忠《ただ》|利《のり》が|訝《いぶか》しげな表情を浮かべる。それを見て、竜憲は声を殺して笑った。  大輔に助け起こされたのは二度目だ。相手が男であるかぎり、目の前で倒れても見ているだけだと思っていたが、手ぐらいは貸してくれるようだ。 「……何をやってたんだ? 酸欠を起こすほどじゃないだろう。|隙《すき》|間《ま》|風《かぜ》で寒いぐらいだし」 「|浄霊《じょうれい》……ってとこか。例の、俺に|取《と》り|憑《つ》いたヤツを追っ払おうとしたんだが……強いんだよ。これが……。で、ブッ倒れたんだ」  |露《ろ》|骨《こつ》に、うさんくさげな顔をする大輔に、竜憲はにんまりと笑ってみせる。 「……で、どうなの? こいつがいればやれそう?」  問われて、忠利は|眉《まゆ》をひそめた。  息子がいつもどおりに戻ってしまったことが、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なのだ。|護《ご》|符《ふ》として働く力を持つ者が現れたのだから、妖鬼が消えたのはわかる。しかし“神”と名乗るほどのものに取り憑かれていれば、何かしらの変化があるはずだった。  それが、以前の息子と、なんら変わりがないのだ。 「……いや。いまはやめておこう。……|姉《あね》|崎《ざき》くん。悪いが、こいつを見張っていてくれないか。何をしでかすかわからないのでな。できれば、部屋に閉じ込めておいてくれ、片時も目を離さないようにな」  |上手《う ま》い頼みかたもあったものだ、と思いながら、竜憲は力なく笑ってみせた。 「……お前、何をしでかしたんだ?」 「だから、取り憑かれてるって言っただろ? 自分ではボケてるだけだと思うが、何かとんでもないことをやらかしそうなんだとさ。あんたなら俺が暴れてもふん|縛《じば》ることができるだろ?」 「……まったく……。わかりました。妙なことをしでかしそうになったら、縛り上げればいいんですね」 「|殴《なぐ》り倒してもいい」 「……はぁ……」  ひょいと|眉《まゆ》を上げた大輔は、それでも忠利の頼みを承知した。  長身で、それに見合うだけの体重がある大輔なら、竜憲が暴れても縛り上げることぐらいできるだろう。実際は呪いの壷に護符を貼り付ける[#「呪いの壷に護符を貼り付ける」に傍点]といったところなのだが、それを説明する気力は、いまの竜憲にはなかった。 「|親《おや》|父《じ》たちは?」 「わしらは、少し準備がある。……今夜にも|浄霊《じょうれい》を行う。——わかっているな」 「……ああ」  ふらりと立ち上がった竜憲は、軽く頭を振った。  どうやら、たいしたダメージは受けていないようだ。  このまま浄霊してもらったほうがよほどすっきりするのだが、それなりの準備が必要なのだろう。何より、竜憲に聞かれずに相談したいことがあるのだろう。  魔物に|取《と》り|憑《つ》かれた身では、その不条理を怒ることもできない。 「……じゃあ、鴻さん。よろしく……。できるだけおとなしくしているつもりだから」  ゆったりと頭を下げる男は、相変わらずの|笑《え》みを|湛《たた》えてみせた。 「悪いな、大輔。つきあってくれ」 「ああ……」  普通の浄霊ではないとわかっているのだろうが、あえて大輔は口を|挟《はさ》まないようだった。もっとも、部屋へ帰るなり、質問を|浴《あ》びせられることはわかりきっている。  それでも、|護《ご》|符《ふ》といたほうがましだ。  厚手のコートを着込んだ男の肩を軽く|叩《たた》いた竜憲はそのまま道場をあとにした。      4  |和《わ》|蝋《ろう》|燭《そく》がじりじりと音をたてて、燃えている。太い炎を上げる蝋燭は半分ほどになっているが、蝋は完全に燃えているらしく、|円《えん》|錐《すい》の|肌《はだ》は|滑《なめ》らかなままで、筋は見当たらなかった。  彫像のように静止した男が二人。蝋燭を|挟《はさ》んで向き合い、何度目かの|溜《た》め|息《いき》を|吐《は》いた。 「……やはり、|律《りっ》|泉《せん》の倉に|封《ふう》じられていたのか……」 「しかし、先生が透視なさった時には、|空《くう》だと。およばずながら、私も|試《こころ》みましたが、何も残ってはいませんでした」 「それだけ、深く封じられていたということだろう。そうでなければ、|竜憲《りょうけん》など、即座に乗っ取られているだろう」  |沈《ちん》|鬱《うつ》な表情の|忠《ただ》|利《のり》に比べて、|鴻《おおとり》は|穏《おだ》やかな|笑《え》みを浮かべたまま。  もっとも、それは感情が|乏《とぼ》しいのではなく、|微笑《ほ ほ え》んだような顔が、彼の平素の表情なのだ。 「倉自体、|封《ふう》|印《いん》だったのだな。……律泉に|式《しき》|神《がみ》が残っているのなら、|約定《やくじょう》はまだ生きているということだ」  忠利は、ひどく気落ちしていた。  息子に降りかかった|災《さい》|厄《やく》が、自分たちの目を|逃《のが》れた|魔《ま》|物《もの》のしわざだという事実が、途方もなく重いのだ。 「|魔《ま》|火《び》も出たと言ったな」 「はい。しかし……」 「わかっている。封じることもできなかったのであろう。……たかが、魔火ごときに術を破られたことが|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なのだろう」 「はい。魔火ではなかったと、竜憲さんには申し上げましたが、火の性であることはたしか。私は火を封じました。それが、封印を抜けて、その家の娘さんを襲うなど……。先生、火の性のものに、人を選ぶものもいるのでしょうか」 「……どうかな……」  |唇《くちびる》を引き結んだ忠利は、視線を宙にさまよわせた。  息子が、|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》の|真《ま》|似《ね》|事《ごと》をしているのを|見《み》|逃《のが》していたせいだ。  天性の破魔の才能だけで対処できるうちはよかったが、修行もせず、学んでもいない竜憲では、|所《しょ》|詮《せん》限界がある。手に負えないものが出てくれば、あっさりと泣きついてくるのを、情けないとは思いながらも、どこかで安心していた。  まさか、こんなことになるとは、予想だにしていなかったのだ。  恐ろしく強い気が|解《と》き放たれたと知った時、|結《けっ》|界《かい》を張ることしか考えなかったのが、そもそもの間違いだろう。  しかし、その原因や相手を|見《み》|据《す》えることなど、とうていできなかった。  山火事を発見しても、消すことより、類焼を食い止めること、人を逃がすことを先に考えるのに似ている。  忠利の手にはバケツ一杯の水しかなかったのだ。  まさか自分の息子が、目覚めたばかりの魔物が力を|蘇《よみがえ》らせるまでの寝床になろうとは。 「……ただ。竜憲さんに|取《と》り|憑《つ》いたものは、はっきりと笑いました。私がお|札《ふだ》をお渡しした時。おそらく、そのものの指図で、魔火は娘さんに襲いかかったものかと……」  視線を鴻に戻した忠利は、|眉《み》|間《けん》に|皺《しわ》を|刻《きざ》んだ。 「……それは確かか?」 「はい。……何か|因《いん》|縁《ねん》があるのでは、と考えて、私なりに調べましたが……。|上《うえ》|田《だ》|美《み》|香《か》という娘さんでしたが、何もないのです。両親の家系も、特別なものはありませんし、血筋に霊能者を名乗る者も、|僧《そう》|侶《りょ》や神官につながるものさえいません」 「しかし、あれがもし、我々が考えるとおりのものなら……」  ちらりと、忠利の視線が流れた。  言葉に出すことはできない。  お方と呼ばれているのなら、竜憲のまわりに集まる|妖《よう》|鬼《き》たちは、彼女の名を知らないのだ。おそらく、竜憲の中で眠るものも、思い出していないに違いない。  万が一、それを口にしてしまったら、竜憲の耳に届くだろう。  そうなれば、結果は目に見えていた。  その瞬間、竜憲の中に|潜《ひそ》むものは|覚《かく》|醒《せい》するだろう。いまの彼らにはとうてい|抑《おさ》えきれぬ力を持った、姫神が。 「|封《ふう》じたものの血が、その娘さんに残っていたのではないかな」 「……難しいですね。|飛鳥《あ す か》の昔からという話が本当であれば……。その血がどれほど拡散しているか……。いちばん近いはずの、律泉が|狙《ねら》われないということであれば、我々が考える血筋では、|辿《たど》りきれない事になります」  |家《か》|督《とく》を継ぐという意味での血筋なら、辿る事もできる。しかし、単純に血を辿るとなると、それは不可能だった。  特別な能力を引き継いでいるというのなら、まだ捜しようもあったが、狙われた娘がなんの抵抗もせずに魔火に焼きつくされるようでは、それも疑わしい。  そして、最大の問題は、たとえ竜憲を殺しても、彼の内に潜むものを再び世に放つだけだということだった。 「律泉の|式《しき》|神《がみ》だけが、知っていたということか。……|約定《やくじょう》は、あれが滅びるまでということだ……。残っているからには、どこかに|封《ふう》じられただけで、再び|蘇《よみがえ》ることもあろうと思ってはいたが……」 「式神に聞くことはできませんか? ……たしかに、一度は|断《ことわ》られましたが、今度は律泉の血筋を聞くのですから、あるいは……」 「いや。式神は人を見るわけではないからな。あの家を守るだけだ。おそらく、何も知るまい……」  深い息を|吐《は》いた忠利は、うっそりと視線を上げて、|弟《で》|子《し》を見つめた。 「……どうするべきかな……」 「封じるしかないのでは……」  鴻にしては珍しく、ためらいがちに言う。 「……竜憲さんに負担をかけることになりますが、その身体を|封《ふう》|印《いん》とするしかないのではないでしょうか……。禁じられていることは承知しております。人を|器《うつわ》として扱うなど、とうてい許されることではありますまい。……しかし、いまはそれしか……。一生とは申しません。私が、なんとしても、姫神を打ち破る術を……」 「やはり……そうか……」  忠利にしても、わかりきっていた結論だった。  わざわざ竜憲を選んだからには、なんらかの理由があるはずだ。姫神が目覚めなければ、竜憲はそれを身の内に隠し続けられるだろう。  恐ろしい負担をかけることはわかりきっている。  |魑魅魍魎《ちみもうりょう》が、姫神を目覚めさせようと、その周囲に|群《むら》がるだろう。  人を器として使うということは、|魔《ま》|物《もの》と同じだ。けっして、人としてとってはならない手段である。  だが、いまはそれしか方法はなかった。 「……ならば……」  かっと、忠利が目を見開く。  同時に鴻の髪が波打った。  風もないのに、長い髪が|逆《さか》|巻《ま》き、何かに引き寄せられる。 「|去《い》ね! ここはそなたらの場所ではない! |暗《くら》|闇《やみ》に戻れ!」  |怒《ど》|号《ごう》した忠利が|仁《に》|王《おう》|立《だ》ちになる。 『けけっ……。|陰陽《おんみょう》の|頭《かみ》も落ちたものよ。|御自《おんみずか》ら、我らごときを|祓《はら》われるかや?』  黒い影が、|蝋《ろう》|燭《そく》の炎の前に浮かぶ。  |猿《さる》のような。しかし無毛の黒い|塊《かたまり》は、長い手をひらひらと|躍《おど》らせた。 『わしらなぞ、木の|陰《かげ》、森の|淵《ふち》に捨て置いてくださったものよ。わしらに何ができよう?』  けたたましい笑い声を上げる|妖《よう》|鬼《き》が、二人のまわりを飛び|跳《は》ねる。 『したが、わしらの|潜《ひそ》む|陰《かげ》がない』 『どこに帰ろうや? けけっ……』  |結《けっ》|界《かい》の中にまで平気で入ってくる|化《ば》け|物《もの》たちは、自分で言うほど無力ではない。  |大《だい》|輔《すけ》が現れると同時に姿を消していた連中は、いまになって再び姿を現した。おそらく、竜憲の内に潜む魔物を|封《ふう》じられては困るのだろう。姫神が|蘇《よみがえ》る時を、息を殺すようにして待っていた連中に違いない。  歴代の|霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》たちが、人に害を与えないからと、|見《み》|逃《のが》した連中なのだ。  だが、いまや本性を|剥《む》き出しにして、二人の霊能者に襲いかかろうとしていた。 「封じられては困るか? ……そうよな、お方が封じられては、貴様らは|闇《やみ》に消えるしかあるまい。せっかくこの世に蘇ったのに、命の一つも食わぬまま、消えたくはなかろうな。だが、わしらとしては、消えてもらうしかない」  忠利が手を打ち振る。  見えない力に|弾《はじ》かれ、影は|床《ゆか》に|叩《たた》き付けられた。 『けけけっ……。それが|大《だい》|道《どう》|寺《じ》忠利の力か。息子に|遥《はる》かに及ばぬぞ。……|鳶《とび》が|鷹《たか》を生むとは、このことか!』  床から|跳《は》ね上がり、再び|弾《はず》むように二人のまわりを回る。  いつのまにか、|妖《よう》|鬼《き》は道場を|埋《う》めるほどの数になっていた。  恐ろしく速い。  跳ね続ける連中の足並みが|揃《そろ》い、ますます大きな音になっていく。  床を揺らし、道場を壊そうとする勢いで、跳ね続ける妖鬼たち。  ゆったりと目を閉じた忠利は、腹の前で手を組んで深い息を繰り返した。  一つ一つ片づけても仕方がない。  彼らの|狙《ねら》いは、二人を疲れさせることにあるのだ。  少しでも時間を|稼《かせ》ごうと考えているのだろう。一日でも延びれば、それだけ姫神が力を|蓄《たくわ》えるのだ。 「……鴻」 「はい」 「……こやつら、よほど|焦《あせ》っているようだな……」 「そのようですね」  鴻の|唇《くちびる》の両端が思いきり引きあがる。目が弓形になり、細い|隙《すき》|間《ま》から|覗《のぞ》く|漆《しっ》|黒《こく》の|瞳《ひとみ》が、奇妙に光った。  本心から笑うと、ますます化け物じみた顔になる。  整い過ぎているがゆえに、冷たい印象を与える顔は、|笑《え》みすらも見る者の心を|凍《こお》らせるのだ。 「やはり、竜憲さんにはしばらく我慢していただくしかないようですね」 「軽率な行動の|報《むく》い、と言い切るには、少しひどいが……それしかあるまいな」  平然と言葉を交わしながら、二人は妖鬼たちの動きを全身で|探《さぐ》っていた。  どうするべきか、決断できた。  いまは、竜憲の中に姫神を封じるしかない。  それこそが、ここに集まった|化《ば》け|物《もの》たちが|恐《おそ》れていることなのだ。 『させぬぞ!』 『お前らの好きにさせてなるものか! いまこそ|怨《うら》みを晴らす時。……そなたらを、とり殺してやろうか……』  ぶわっと、影が|膨《ふく》れ上がる。  小さな、猿ほどの大きさだった妖鬼は、一つに固まり、たちまち見上げるほどに伸びあがった。  |凝《こ》った身体を|解《ほぐ》そうとでもいうのか。首を回し、肩を上下させて関節を鳴らせた影は、にんまりと笑った。  同時に、ゆっくりと影が実体となる。  板張りの|床《ゆか》が|軋《きし》み、重量に負けてへし折れた。  |燭台《しょくだい》が|転《ころ》がり、|蝋《ろう》|燭《そく》の炎が床に移る。やがて、|磨《みが》き込まれた床は小さな炎を受け取った。 「それが本性か?」 「そうよ。……貴様らが、術を忘れ、師を忘れ、|堕《だ》|落《らく》してゆく様を、しかと見ておったわ。いまこそ、積年の|怨《うら》みを晴らしてやろうぞ!」  実体を得ると同時に、しわがれた声も現実のものとなる。|幾《いく》|重《え》にも重なって聞こえる|声《こわ》|音《ね》は、それだけで胸の悪くなるような響きを持っていた。  竜憲のまわりに|集《つど》っていた連中とは違う。  姫神が|蘇《よみがえ》る時を待って、形を変え、性質さえも変えて、|闇《やみ》に|潜《ひそ》んでいたのだろう。 「|喰《く》うてやろう。……ほんにひさかたぶりの|餌《え》じゃ」  むっと臭気が襲いかかる。  肉の|腐臭《ふしゅう》にも似た体臭に、草木の|腐《くさ》る臭いが混じっていた。ますます巨大化する化け物は、いまにも|天井《てんじょう》を突き破ろうとしている。 「お方さまに、何よりの|馳《ち》|走《そう》じゃて」  巨大な腕が伸びる。  刃物のような|爪《つめ》が、忠利に突き立てられた。  しかし、わずかに顔を|歪《ゆが》めただけで、忠利は平然と立っている。 「|愚《おろ》かな……。貴様らにたばかられるほど、|戯《たわ》けではないわ!」  忠利の手が|一《いっ》|閃《せん》する。  |床《ゆか》を|這《は》う炎が、手につられて舞い上がり、|妖《よう》|鬼《き》に襲いかかった。  瞬間に、妖鬼の身体が|縮《ちぢ》む。 「こしゃくな!」  人ほどの大きさになった妖鬼が、|牙《きば》を|剥《む》き出し、息を吹きかける。  ついと顔を|逸《そ》らせて息を避けた忠利は、再び手を振り上げた。  その眼前を、白い|閃《せん》|光《こう》が走る。 「先生!」  閃光に切り落とされた|爪《つめ》が、床に|転《ころ》がった。 「すまん。……|歳《とし》かな……。こんなものにも気づかぬとは……」 「ご|冗談《じょうだん》を……」  妖鬼の手から離れた爪が、ふわりと浮き上がり、四方から忠利を|狙《ねら》っている。 「……だが、遊びはこれまでよ」  両手を高く|掲《かか》げた忠利が、|掌《てのひら》の間に光を生む。  ふらりと揺らいだ身体を、足を踏み出して支え、さらに光を強くする。 「先生! 無茶な!」  絶叫を|掻《か》き消すように、光が放たれた。  |己《おのれ》の身体を|貫《つらぬ》いて、光が四方に伸びる。 「ぎゃあぁぁ……」  妖鬼が、悲鳴を上げて身もだえる。 「……|馬《ば》|鹿《か》にしたものでもなかろう……。いまの世にも、術を|操《あやつ》るものはおるぞ……」  |唇《くちびる》の端を|歪《ゆが》めた忠利は、そのまま|膝《ひざ》を突いた。  息が荒い。  疲労が回復しないうちに、力を使ったせいだろうか。  肩で息を|吐《は》く忠利の横に膝を突いた鴻は、その顔を|覗《のぞ》き込んで|頬《ほお》を引きつらせた。 「……先生……」 「一人で……やれるか?」 「やってみます」 「……すまんな……。少し、無茶だったようだ……。二、三日休めば……。だが……」 「わかっています。とにかく、今夜、私が|試《こころ》みてみます」 「……頼…む……」  荒い息をどうにか|治《おさ》めようと、|咽喉《の ど》に手をやる忠利は、やがて、ゆっくりと意識を失っていった。  荒い息が治まったと思うと、ひどい|鼾《いびき》をかき始める。 「……まずい……」  |舌《した》を鳴らした鴻は、彼の身体を静かに横たえると、道場の|扉《とびら》に駆け寄った。 「——奥様! ……|真《ま》|紀《き》|子《こ》様! 救急車を!」  自分の声が妙にむなしく響く。 「誰かおらんのか!? 救急車を呼べ!」  遠くで悲鳴が聞こえた。 「くそう!」  道場の|床《ゆか》に横たわる忠利をちらりと見やった鴻は、扉を引き開け、|廊《ろう》|下《か》に飛び出した。     第六章 眠れる姫神      1  救急車の回転灯が、ただでさえ不安な気持ちを、さらに駆り立てる。明滅する赤い光に照らし出された顔は、どれも緊張していた。  |淡《たん》|々《たん》と自分たちの作業を進める救急隊員が、非情に見えてくるところが、人間の身勝手さというものだろう。実際、彼らは精いっぱいに自分たちのできることをしているのだ。  とはいえ、もう少しなんとかというのは、病人の家族なら誰でも思うことかもしれない。  |大《だい》|輔《すけ》と|真《ま》|紀《き》|子《こ》が一緒にいるせいか、|魔《ま》|物《もの》のほうがおとなしく姿を消しているためだろう。つまらぬことが気にかかる。  救急隊員と話す母親を|眺《なが》め、|竜憲《りょうけん》はいたって人並みに父親の心配をしていた。  彼らに事実を告げたところで、信じるわけもない。前後にあったことを、|鴻《おおとり》は|上手《う ま》い具合に言い|繕《つくろ》っていたが、真紀子や竜憲にはちゃんと事実を告げていた。|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》、|蜘《く》|蛛《も》|膜《まく》|下《か》出血、そんな|類《たぐい》の病気には|詳《くわ》しくないが、とにかくなんらかの脳|疾《しっ》|患《かん》と診断されるのは確実だ。  心臓をはじめとする内臓には|疾《しっ》|病《ぺい》はないし、血圧が高いわけでもない。平均的な同年代の男に比べれば、超人的に|頑《がん》|健《けん》な父親なのだ。  だが、現実には現れた症状に対する治療を|施《ほどこ》すしかないのである。医者が首を|傾《かし》げる可能性は多大だったが。 「どうなるんだ?」  小声で|囁《ささや》く大輔を、竜憲はぼんやりと見上げた。 「さぁ……。どうにかなるんじゃないの」  自分でも妙な答えだとは思うのだが、適切な言葉など何も思い浮かばない。 「数日間、安静にしていれば、すぐによくなります。……そのためには、この家にいないほうがよいんですよ。——ここにはどうしても、|魍《もう》|鬼《き》が集まる……」 「しかし……頭なんだろう? 急に動かして……」  口を|挟《はさ》む大輔に、鴻は|笑《え》みらしきものを見せた。 「そう見えるだけです。……力を使い過ぎただけですからね。だいいち、明確な症状など出ていないでしょう」  力は人一倍強いというのに、この男は一般人を言いふくめる能力のほうも充分過ぎるほど身につけているようだ。  大輔が言葉を飲み込んで、|眉《まゆ》を寄せる。 「それよりもあなたにお願いします。何があっても、竜憲さんのそばを離れないこと。……わかりましたね?」  二人のやりとりを無言で聞いていた竜憲は、救急車に乗り込む母親を視界の|隅《すみ》に見つけて車に近づいた。 「かあさん……|大丈夫《だいじょうぶ》かい? 一人で」  思いのほか明るい表情で、彼女は|頷《うなず》いた。 「ええ、リョウちゃんこそ、ちゃんとなさいよ。|忠《ただ》|利《のり》さんのことは私にまかせて……。わかっているわね?」 「あ……ああ」 「鴻さん……サコちゃんをよろしくね」  彼が無言で頭を下げると、母親はさっさと車の奥に入ってしまう。  竜憲の目の前で|扉《とびら》が音をたてて閉じた。  サイレンを鳴らさず、回転灯だけをつけて、車がゆっくりと出て行く。  なんだか信じられない光景だ。 「ねぇ、リョウちゃん……おじさまは……」  不意に声をかけられ、竜憲はびくりと首をすくめた。 「いやぁねぇ……何|驚《おどろ》いてんのよ」 「べつに驚いたわけじゃ……」  言い|澱《よど》んだ竜憲の顔を|覗《のぞ》き込んだ|沙《さ》|弥《や》|子《こ》の表情が、急にひどく真剣なものになる。 「ねぇ……私のせい?」 「え……何が?」 「おじさまが倒れたことに、決まってるでしょ!」  |眦《まなじり》を怒らせた沙弥子に、竜憲は|片《かた》|眉《まゆ》を上げてみせた。 「きっかけは……ね。でもぶっ倒れたのは、自分のせいさ。|歳《とし》がいもなく|頑《がん》|張《ば》っちゃったからじゃねぇの。サコが責任感じることないぜ」 「ホントに?」 「どうせ二、三日すりゃ、ぴんぴんしてるさ」 「でも……普通じゃなかったわよ。……だって、おばさまと一緒にいたのに、居間を通り抜けていった|化《ば》け|物《もの》の影を見たもの……あたし」 「それなら、少しは|自重《じちょう》することだ。人間を|亡《ほろ》ぼすのは、つねに|好《こう》|奇《き》|心《しん》だからな」  大きな黒い影が、横合いから断言する。 「おい……大輔。そういう言い方は……」 「いいのよ。……あたしだって、ホントに悪いと思ってるのよ。だって、こんな……」 「……およしなさい。誰の責任でもありませんよ。|巡《めぐ》り合わせというものです。……そんなことでいい争う間に、自分のできることを行うことが、事を|治《おさ》める最良の策です」  これ以上ないという正論を|説《と》かれて、その場の全員が|黙《だま》り込む。  それを確かめるように全員の顔を見渡した鴻は、沙弥子に向き直った。 「それじゃあ……沙弥子さん。お宅まで送りましょう。……お父上にお話ししなければならないこともありますし、何より時間がありません」 「はい」 「けど、本当に平気なのか? 大輔か、かあさんと一緒にいたほうが……」 「いえ、|律《りっ》|泉《せん》の|式《しき》|神《がみ》は、何よりの|護《ご》|符《ふ》です。倉に|封《ふう》じられた|魔《ま》|物《もの》は、あの式神がいるかぎり、けっしてあの屋敷には入れないはず」  |不承不承《ふしょうぶしょう》|頷《うなず》いた竜憲に、鴻は|微笑《ほ ほ え》みかけた。 「じゃあ、行きましょうか」  引き止めることに益がないことはわかっているのだが、何もかもが不安でまったく信用できないのだ。 「リョウちゃん。何かあったら連絡してね。……手伝いくらいはできると思うから」  妙におとなびた顔で沙弥子が言う。 「そうだね」  苦笑した竜憲に、|片《かた》|眉《まゆ》を引き上げてみせた沙弥子が、くるりと背を向ける。  二人の背中を見送り、竜憲は肩を落とした。 「さあ、これで|邪《じゃ》|魔《ま》はいなくなったわけだ」  不意に声が降ってくる。 「は?」  見上げると、目を|眇《すが》めた大輔が、|呆《あき》れ顔でこちらを|眺《なが》めていた。 「聞いてない話ばかりだからな。……ちゃんと|喋《しゃべ》ってもらうぞ」 「なんだよ。いつだって、喋ってるじゃないか。あんたが信用しないだけで……」 「違うだろうが。さっき言ってたじゃないか。……俺か、お前のおふくろがどうとかって」 「あ……あれね。気にしなくても……」 「いや。気になる。だいたい、どうして俺が呼ばれた?」  言葉に詰まった竜憲を、大輔はひどく冷たい目で見下ろしている。 「ま……中に入ろうぜ。寒いよ、ここは」 「いいだろう。……時間は充分ありそうだからな」 「なんだかね……。この頃、あんたおかしいよ」 「おかしいのはお前だ」  そう断じた大輔は、先に立って玄関を引き開ける。  さらに肩を落とした竜憲は、小さくなって彼のあとに続いた。      2 「ちょっと待て」 「何?」  |竜憲《りょうけん》は|長《なが》|椅《い》|子《す》にだらりと寝そべり、煙突並みに煙を|吐《は》き出す|大《だい》|輔《すけ》を、半分目を閉じて|眺《なが》めていた。 「もう一度……言ってくれ」  |苛《いら》|々《いら》と|煙草《た ば こ》を|揉《も》み消した大輔が、新しい煙草を引き出す。 「だからさ。……あんたになんにも見えないのは、そういうものをなんでもかんでも追っ払っちゃうからなんだ。それこそ、俺に|取《と》り|憑《つ》いてる|化《ば》け|物《もの》さえ、引っ込んじまうんだから、そりゃもう強いわけよ」 「それは聞いた」 「もう一度言えって言ったじゃない」  煙草に火が|点《つ》けられる。 「違う。俺が聞きたいのは、それはどういう意味で、どんな根拠の上に……」 「なんと言われても、事実なんだ」  |唇《くちびる》から煙草をもぎ取った大輔が、|火《ひ》|口《ぐち》を見つめて|舌《した》を鳴らす。どうやら、火がまともに点いていなかったらしい。  立て続けに石を鳴らし、ようやく点いた炎に煙草の先をかざして吸い付けた。  見ているだけでおかしい。  本当に|狼《ろう》|狽《ばい》しているのが、目に見えるのだから。 「あんたが自分で知らないうちに追い払うから、あんたにはなんも見えない。これって論理に|破《は》|綻《たん》があるかなぁ」 「そうとは言わんが……」 「それなら、素直に信じてくれよ。……だいいち、あんたがマジに協力してくれないと、俺の命が危ないんだぜ」 「だから、なにも協力しないとは……」 「そうなんだよな。信じなくてもいいから、協力だけはしてくれないと……」  煙草の煙を高く吹き上げた大輔は、その煙の|行《ゆく》|方《え》をしばらく眺めていたが、やがて、竜憲に振り向けられた視線は、見たこともないほど真剣なものだった。 「協力はする。……立ち会えばいいんだろう」 「ああ」 「そのまえに、聞かせてくれ。その|取《と》り|憑《つ》いたとかいう|化《ば》け|物《もの》の正体を」 「知らない」 「知らない?」 「そう、知らない。|親《おや》|父《じ》も|鴻《おおとり》さんも教えてくれないんだ。……まずいものだとは言っていたけどな。何しろ、|鎌《かま》|倉《くら》を囲む|結《けっ》|界《かい》を引いたっていうんだから。たしかにたいした相手なんだろ。集まってくる|魍《もう》|鬼《き》の|類《たぐい》も|半《はん》|端《ぱ》じゃないからな」  大輔が|溜《た》め|息《いき》を|吐《は》き、半分以上残った|煙草《た ば こ》を灰皿に押し付ける。 「そのわりには……お前はのんきに構えてるな」 「そうなんだよな。自分でも|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》だ。……あんたが来たとたんに気が楽になっちゃってさ。ほんとにあんたの威力は|凄《すご》いな……なんて」 「ふざけるな!」  |怒《ど》|鳴《な》りつけられて、竜憲は首をすくめた。  だが、事実である。  大輔の顔を見たとたん、いつもの自分が戻ってきた。|護《ご》|符《ふ》の威力とはたいしたもので、魍鬼どもの姿とともに、その影響力も消えるようだ。  それが母親と、大輔の力の質の違いなのだろう。  自己|防《ぼう》|衛《えい》に終始して、|魔《ま》|物《もの》の目から|逃《のが》れるために壁の向こうに隠れようとする母親。魍鬼たちは竜憲が壁[#「壁」に傍点]の向こうにいるとわかっているかぎり、警戒を|緩《ゆる》めない。  いつ出てくるか、待ち受けているのだ。  |過剰《かじょう》防衛と言ってもいいような、“現れるまえから|叩《たた》き切る”タイプの大輔には、|己《おのれ》の保身のほうが先に立つのか、いったん引き下がる。  そして、大輔が消えるのを待っているのだ。  確実に受け取ることはできないが、待ち受ける連中の意識の違いが、竜憲の心理に影響を与えていた。 「あんたはたいした戦士だ。……そういうことさ」 「なんだと?」 「腕の立つ|用《よう》|心《じん》|棒《ぼう》と言ってやってもいいぞ。つまり……あんたが無意識のうちに連中を|威《い》|嚇《かく》してくれるから、俺は安心してられる。連中はあんたしか見ていない。まるっきりかなわないのにな……」  声を上げて笑った竜憲は、ゆっくりと身体を引き起こした。 「あんたがいれば、|邪《じゃ》|魔《ま》は入らない。……その間に、俺の中に、あの化け物を|封《ふう》じるそうだ。鴻さんが、やっつける方法を見つけるまでの間。……|下手《へ た》すりゃ、一生抱えて歩くことになるが……そううまくはいかないだろう」 「なんだと? 聞いてないぞ」 「そりゃ、そうだ。俺だって、さっきどさくさ|紛《まぎ》れに言われたんだもの」 「……そんないい加減な……」 「でもそれしか手がないなら仕方がない」  あっさりと言い切った竜憲を、大輔が目を|眇《すが》めて|眺《なが》める。 「お前の中のヤツを|成《せい》|敗《ばい》するってんじゃないのか?」 「鴻さん一人で? 無理だよ。|親《おや》|父《じ》と一緒でも無理だ」 「……お前の中に|封《ふう》じるっていうのは、どういうことだ!」 「だから。俺が|呪《のろ》いのリカちゃん人形になるってことで……」 「竜憲!」  |怒《ど》|鳴《な》り|据《す》えられ、竜憲はうっそりと顔を上げた。  この男が竜憲と呼ぶ時は、危ない。  たいていそのあとで|拳《こぶし》が飛んでくることになるのだ。さすがに、今回ばかりはその危険はなかったが、心底怒っていることはわかる。 「いい加減にしろ。何が呪いのリカちゃん人形だ」 「……だからだな……。べつに呪いの|市《いち》|松《まつ》人形でもいいが……。俺は俺のままだ。だが、俺のまわりには、いままで以上に|化《ば》け|物《もの》が押し寄せる。俺に直接手出しはできないが、俺に|係《かか》わる人間には、被害が及ぶ事もあるだろう。……そこいらは鴻さんの腕次第だな。どこまで封じられるか……。うまくいけば、能力がある人間にだけわかる、って程度まで、封じられるだろう」 「……そううまくはいかないってのは? |下手《へ た》すりゃ一生、その化け物を抱えるってのは、わかる。だが……」  いったん言葉を途切れさせた大輔は、|苛《いら》|立《だ》たしげに|煙草《た ば こ》を灰皿にねじ込んだ。 「あんた。そんなにヘビースモーカーだったか? さっきからもう|二《ふた》箱目だろ。……たしか、一日……」 「うるさい、ごまかすな。……うまくいかない。そのあとだ。何を言いかけたんだ。お前は何を考えているんだ?」  この男が、恐ろしく|勘《かん》がいいということを忘れていた。  不用意に言葉をもらしてしまったが、いまさら|悔《く》やんでも仕方がない。何より、言うべきなのだろう。  父親が立ち会わないとなれば、頼れるのは大輔だけなのだ。  鴻はまるで信用できない。  煙草を引き寄せた竜憲は、ゆっくりと火を|点《つ》けた。 「……つまり……。封じるには、俺の|器《うつわ》は小さいってことだ。無理やり押し込めるんだから、向こうの力が強くなれば、器は壊れるってことさ……」  大輔が目を|剥《む》く。 「そういうことだ。まぁ、持って一年か二年。そこまで持てば、いいほうだろうな」 「おい……」 「|封《ふう》じるのが成功するかどうかもわからないしな。……とんでもないぜ、こいつらが目覚めたら。|親《おや》|父《じ》たちは、俺を殺してでも、始末する気だったらしいが、それさえできないんだ……」 「ちょっと待て……。だったら……」 「まあ聞け。お前に頼みがあるんだ。……俺が妙なことをしでかしそうだったら……」  大輔を正面から|見《み》|据《す》え、言葉を切る。  さすがに言いづらかった。  案に相違して、大輔は口を|挟《はさ》もうともしない。  小さく|咳《せき》|払《ばら》いをし、ソファーに座り直した竜憲は、あらためて大輔を見つめ、言葉を繰り返した。 「何かしでかしそうだったら……な。——殺せ」  大輔は目を見開いた。 「殺せ……だと?」 「そうだ。殺せ」 「|馬《ば》|鹿《か》言うな。できるわけが……」 「いや、できる。そこまで俺がこの|化《ば》け|物《もの》と同化していれば、こいつも一緒に殺せるはずだ。すくなくとも、封じることはできるはずだ。あんたならね」 「馬鹿か、お前。……俺はそんなことを言っているんじゃないぞ」 「|駄《だ》|目《め》だ。やってもらうぞ。そうでなければ……」 「黙れ!」  |一《いっ》|喝《かつ》され、竜憲が口をつぐむ。 「ぺらぺらと……わけのわからんことを|捲《まく》し立てやがって! いい加減にしろ! 頼まれてできることとできないことがあるんだぞ」 「わかってるよ。けどな……」 「親父さんが言ったのか?」 「違うよ。俺の|勘《かん》だ」 「なおさら聞けるか! そんな話!」 「だろうな……」  竜憲はソファーにごろりと横になった。 「もういい。あんたはそんな|奴《やつ》だ。……俺は真剣に頼んでいるのにさ」  無言で応じる大輔を、ちらりと見て、|天井《てんじょう》に視線を投げる。  大輔が低く|唸《うな》った。  それから、ゆっくりと|煙草《た ば こ》に火を|点《つ》ける。 「……約束はできない」 「あ……そう」 「だが、覚えておく」  もう一度、大輔を見た竜憲は、にっこりと|微笑《ほ ほ え》んだ。 「ありがとう」  返答はない。  再び、天井に視線を戻し、竜憲は長く煙を吹き出した。 「……あんたしか頼めない。……俺は、鴻を選ばなかったんだ……」  |曖《あい》|昧《まい》な言い方をしてやっているのだが、大輔は答える気はないようだ。|手《て》|探《さぐ》りで灰皿を探す手もとに、クリスタルの|器《うつわ》が押し付けられる。 「……俺は力のある者を選ぶそうだ。音楽でも絵でも、人間でも。……俺にとって価値があるものと言ってもいいな……。だが、俺は鴻を近づけなかった。|弟《で》|子《し》のなかでは若いほうだし、向こうはお守りをする気だったらしいが……。とにかく逃げ回っていた。|何故《な ぜ》か、虫が好かなかったんだ」  煙草を|揉《も》み消し、頭の下で腕を組んだ竜憲は、小さく笑った。 「……|親《おや》|父《じ》だけが倒れたのも妙だ。たしかに、親父がやるべきだったかもしれないが、あれだけ疲れていることを知っていたのに、やらせた。それが引っかかっている」 「……だが……」  言葉を待つ。  しかし大輔は、再び|沈《ちん》|黙《もく》を守った。  言いたいだけ言わせようという腹だろう。 「俺のほうが変なのかもしれない。……だがな、親父より鴻のほうが力は上なんだ。それが……|納《なっ》|得《とく》できない。どうして親父が倒れたのか……。この前、あんたが言っただろう。俺が親父に造反するのを待っているって……。あれは造反じゃなくて……なんといったらいいか……。とにかく、俺が変わるのを待っているんじゃないかってね」 「おい。あれは、そんな気がしただけで……。親父さんの力とは違う力を、認めているって意味でだな……」 「だから、いまがそうじゃないか」  ちらりと大輔に目をやった竜憲は、小さく笑った。  ひどく真剣な顔で自分を|見《み》|据《す》える男は、自分がどんな状況に巻き込まれたのか、ようやくわかったらしい。 「……この中の|化《ば》け|物《もの》が目覚めれば……。もし、それをあいつが|操《あやつ》れるとすれば、これ以上ない|式《しき》|神《がみ》になるだろう」 「……まったく。お前がそこまで疑い深い|奴《やつ》だとは知らなかったよ」 「そうか?」 「……ああ。どっちかってえと、単純バカだと思っていた」  にんまりと笑った竜憲は、|手《て》|探《さぐ》りで|煙草《た ば こ》のパッケージを引き寄せた。  大輔のことをからかっておきながら、自分も、普段の数倍のペースで煙草を消費している。  明日はないのかもしれない、と考えると、どうしても煙草に手が伸びるのだ。 「……鴻は、俺が完全に乗っ取られても、|見《み》|逃《のが》すだろう。なんとでも言い訳ができるしな。……だが、あんたにはそれは言わせないぞ。化け物と戦う俺がどう動くか、あんたなら知っているはずだ。……もし、負けそうだったら……殺してくれ」  煙を吹きながら、大輔を見やる。  またしても、無言だ。 「|大丈夫《だいじょうぶ》だって、本当なら勝てたはずだ、とか言って化けて出やしないから。間違いで殺してくれてもいい。……だいいち、あんたのところには、化けて出ようにも、出られやしないんだしさ」  声を殺して笑う竜憲を、大輔は|不《ぶ》|気《き》|味《み》なものでも見るように|見《み》|据《す》えていた。 「なんだったら、ナイフか何かを持ち込んでくれ。……鴻が守り刀を持っているはずだけど、取り上げるのは苦労だろう。……たしか、そこいらにサバイバルナイフが……」 「お前は、負ける気なのか!」  胸ぐらを|掴《つか》み、竜憲を引き起こした大輔は、|頬《ほお》を引きつらせて歯を|剥《む》いた。 「殺せだのなんだの言いやがって。勝ちゃいいだけだろうが。え? 違うか? ……お前が|封《ふう》じる気にならなきゃ、成功するもんも|駄《だ》|目《め》になるだろうが!」  体温が上がる。  大輔は怒りにまかせて竜憲を揺すった。 「手前の勝手ばかり言いやがって。わかってんのか? お前を殺せば、こちとら殺人者になっちまうんだぞ。一生を棒に振れって言ってんだからな!」 「大丈夫だ……」  胸もとの手を掴み、竜憲はゆっくりと押し|退《の》けた。 「鴻さんがうまくやってくれる。おふくろも、|親《おや》|父《じ》も……。どうしてそうなったか、わかってくれるはずだ」 「そういう問題じゃないだろうが……」  もう、何を言っても無駄なのだ。竜憲は|覚《かく》|悟《ご》を決めている。  ようやくそれがわかった大輔は、|煙草《た ば こ》に手を伸ばした。  自分には何も見えない、聞こえない敵に、|大《だい》|道《どう》|寺《じ》に|係《かか》わる人間がすべて立ち向かおうとしている。何も見えないが|故《ゆえ》に、同席を求められたのであれば、自分は自分の判断で、対処するしかないのだろう。 「……少し、休んどけよ。ただし、ここで、な。あんたが言うとおり、俺も少しは戦う気でいる。ここに|化《ば》け|物《もの》が現れたら、疲れて仕方がない……」 「ああ……わかったよ……」  実際は、何もわかっていないに等しいのだが、そう答えるしかない。  自分だけが部外者でいることはできないのだ。  今度にかぎり。  ゆったりと|椅《い》|子《す》に身体を預けた大輔は、目の前で寝そべる男に、|眇《すが》めた目を向けた。      3  |百目蝋燭《ひゃくめろうそく》と呼ばれる大きな和蝋燭が、正方形の頂点に置かれている。その周囲に、少し小振りのものが|縁《ふち》を描き、|脚《あし》の長い|燭台《しょくだい》にはそれぞれに|護《ご》|符《ふ》が|貼《は》り付けられていた。  道場の|床《ゆか》|板《いた》は|壊《こわ》れたままだが、応急処置として、板が打ち付けられている。  この場を|調《ととの》えるために、|忠《ただ》|利《のり》の|弟《で》|子《し》たちは、必死に作業を行ったのだろう。  |竜憲《りょうけん》の中に入り込んだ|魔《ま》|物《もの》と、戦うほどの力もないとわかっている弟子たちは、せめて自分にできることをやっていた。  |師匠《ししょう》が倒れたという|衝撃《しょうげき》も、その息子が恐ろしい魔物に|取《と》り|憑《つ》かれたという事実も、彼らの熱意を奪ってはいない。むしろ、状況が|逼《ひっ》|迫《ぱく》しているからこそ、自分たちができることを精いっぱい熟知している。  トラブルが起こったからといって、精神的混乱を来たすような者では、修行もできないのだ。  さすがに、|大《だい》|道《どう》|寺《じ》忠利が選んだ者たちだけあって、全員が黙々と作業を続けていた。 「……|鴻《おおとり》さん。これでよろしいでしょうか……」  道場に通う|弟《で》|子《し》のなかでは最年長の男が、年下の男に問う。 「お手数をかけます」  頭を下げた男は、|白装束《しろしょうぞく》に身を包んでいた。  長い黒髪を総髪に流し、|漆《しっ》|黒《こく》の|瞳《ひとみ》を道場に向けた鴻は、|蝋《ろう》|燭《そく》の位置を確かめると、再び|頷《うなず》いた。 「……おわかりだとは思いますが、私が……いえ、今回は|姉《あね》|崎《ざき》くんがここを出るまで、何があっても、けっして|扉《とびら》を開かぬように、お願いいたします」 「……あの、青年が……」 「私も、取り込まれるかもしれません。しかし、彼だけは、何も受け付けないでしょう。彼は、|排《はい》|魔《ま》の|性《しょう》を持っていますから」 「わかりました」  どれほど重大なことか。全員がわかっている。  いったん道場に竜憲たちが入ってしまえば、彼らにできるのは扉を|護《まも》ることだけなのだ。そして、一匹でも|魍《もう》|鬼《き》を倒すこと。 「では……。よろしくお願いいたします」  深々と頭を下げた鴻が扉をくぐる。  竜憲と|大《だい》|輔《すけ》は、|廊《ろう》|下《か》の端で、そのやりとりを見守っていた。 「……大時代なことで……」 「そう思うだろう。ところが、けっこうただの儀式じゃないんだな」 「で、俺たちは?」 「鴻さんが呼んだら、入るのさ。いま、|結《けっ》|界《かい》を張っているはずだ。……で、舞台が|調《ととの》ってから、主役が登場する」 「なるほどね」  大輔の目から見れば、ただの|虚《こ》|仮《け》|威《おど》しなのだろうが、蝋燭の一本、弟子たちの立ち位置一つにも意味があった。  もっとも、大輔はその意味などわからなくていいほど、絶大な力を持っていた。  彼らが護るのと、大輔の髪をばらまくのと、どちらが強いかと言われれば、断言する自信はない。ひょっとすれば、意思がないぶん大輔の髪のほうが強力な結界になるかもしれなかった。  魍鬼の|囁《ささや》きに|惑《まど》わされることもなく、|幻《まぼろし》に|無《む》|駄《だ》な力を使うこともないのだ。  だが、あえてそれをやる気にはならない。  問題は、道場の中だった。 「……竜憲さん。……ご用意いただけますか」 「はい。……よろしくお願いいたします」  神妙な顔で頭を下げた竜憲は、大輔の腕を軽くこづくと道場に向かった。  火を|点《とも》された|蝋《ろう》|燭《そく》の|渦《うず》が、二人を迎える。  大気自体が渦巻いているような。  すべての気が、中央の正方形に流れ込むように配置されていた。  一瞬、|目《め》|眩《まい》を起こした竜憲の腕を、大輔が|掴《つか》む。 「おい。|大丈夫《だいじょうぶ》かよ、いまからこんな調子で……」 「いい傾向さ。術が|効《き》いているんだから……」  笑う顔は、どこか|覇《は》|気《き》がない。  不安げに|眉《まゆ》を寄せる大輔の脇を、|肘《ひじ》で突いた竜憲は、深々と頭を下げてから、道場に踏み込んだ。  背後で、音をたてて|扉《とびら》が閉じられる。 「中央に……。姉崎くん。君は私の正面に座ってください」  鴻に指示されたとおり、竜憲は正方形に区切られた蝋燭の中央に腰を下ろした。 「もし、万が一気分が悪くなるとか、自分を失いそうになれば、言ってください。術を中断しても、問題はありません。……後日、先生とともに行いますので。……我慢なさらないでください」 「わかってる。……けど、あとになるほど|面《めん》|倒《どう》になるんだろう?」 「ですが、失敗するより、よほどいい。……姉崎くん。あなたに見えるほどのものがあれば、教えてください。……気のせいとか、|錯《さっ》|覚《かく》とか思わずに。よろしいですね」 「はい……」  簡単に応じた大輔は、鴻の正面にゆったりと腰を下ろした。  自分が何をするのかもわからず、こんなところに座っているのが|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》だが、いまさらやめることはできない。なんの役にも立たないことは、二人がいちばん知っているだろうと思い決め、姿勢を正す。 「……楽にして結構です。……あなたは鏡の役ですから。私の力を|跳《は》ね返し——いえ、増幅して跳ね返す役割なのです」  簡単に説明した鴻は、ゆったりと胸の前で手を合わせた。  奇妙な|呪《じゅ》|文《もん》や薬、|水晶玉《すいしょうだま》などが登場することを期待していた大輔は、わずかばかり失望を覚えていた。  何も起こらない。  竜憲と鴻が向かい合って座り、それを見守る、という立場でしかないのだ。  しかも、これはひどく|退《たい》|屈《くつ》な見せ物になりそうだった。  それなりの力は使っているのだろうが、大輔には何も見えない。ただ緊迫した空気だけは|辛《かろ》うじてわかる。  竜憲の背中をこうして見るのも、めずらしいことだ。  たいてい、少し上から見下ろすか、顔を突き合わせていがみあっている。そのくせ、いちばん近しい友人だというのだから、変な話だ。  互いに利用しているだけ、と認識していたが、それだけでもないのだろう。  趣味は合わない。  特に、女の趣味はまったく違っていた。  幸い、と言うべきなのだろう。  どう見ても、竜憲のほうが女たちが|群《むら》がる顔をしているのだ。体格だけは大輔のほうが勝っていたが、それも、近頃では嫌われる原因の一つになっていた。 「|何《なに》|故《ゆえ》!」  突然の声に、大輔は思考を現実に引き戻された。  答えは聞こえない。だが、鴻の声に、竜憲が答えているのだろうということはわかった。 「ならばなぜ。いまさら、迷い出ても、何もあるまい。静かに眠られるがよかろう」  竜憲の中に入り込んだとかいう|魔《ま》|物《もの》と、話し合っているらしい。  すん、と鼻を鳴らした大輔は、肩の力を抜いて二人を見つめていた。  たいしたことはない。  竜憲がいざとなれば自分を殺せ、などと言いだすから、いらぬ心配をしてしまった。しかし、現実には、竜憲の中に入った魔物とやらに、言葉を投げかけているだけなのだ。  これなら、竜憲が魔物と戦っている時のほうがよほど|派《は》|手《で》だった。風もないのに髪は|逆《さか》|立《だ》つわ、目は光るわ。|挙《あ》げ|句《く》のはてに、どこからともなく、光が発せられたりした。  |密《ひそ》かに、道具も使わずSFXができる男、と命名してやったものだ。  だが、まわりの|蝋《ろう》|燭《そく》はちらりとも揺れなければ、光源のない光が現れるわけでもない。  |虚《こ》|仮《け》|威《おど》しさえないような、|退《たい》|屈《くつ》な|芝《しば》|居《い》だった。 「そのまま眠られよ……。その身をしばしの寝床とされるがよい……」  そのために、竜憲は魔物につきまとわれることになるのだ。  説得することはできても、倒すことができない魔物とやらのせいで、竜憲は|犠《ぎ》|牲《せい》になる。  |承服《しょうふく》したくはなかったが、彼が選んだことである。 「……ならば……。がっ!」  ぐらりと、鴻の身体が揺らいだ。 「鴻さん……」  腰を浮かせかけた大輔に、鴻が首を横に振る。  両手で押さえた腹に、赤い|染《し》みが浮いていた。  たいした出血ではない。だが、何もなかったのだ。何も現れなければ、妙な音もしないのに、鴻の腹には斜めに血の染みが走っていた。 「……眠られよ。この世にそなたの場所はない。そなたの名もない……。そのまま……静かに……」  突然、鴻の身体が|弾《はじ》け飛ぶ。  大輔は、自分でも意識せずに立ち上がっていた。  そのまま、鴻に駆け寄る。  |蝋《ろう》|燭《そく》をなぎ倒し、|床《ゆか》に倒れた男は、意識を失っているようだ。 「鴻さん! どうすりゃいい? 聞いてないぞ、こんなこと!」  がっくりと|垂《た》れた首は、ただの気絶ではないと教えてくれる。息をしているのが|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なほど、完全な|昏《こん》|倒《とう》だった。 「リョウ!」  振り返った大輔は、そのまま言葉を失った。  |妖《よう》|艶《えん》な美女。  どうしてここまで美しいのか。人にはあり得ない|美《び》|貌《ぼう》の女がそこにいた。 「……まさか……」  これが、竜憲が言っていた異変なのか。  これを殺せというのか。この足もとに|額《ぬか》ずくしかないような、|壮《そう》|絶《ぜつ》な美貌の持ち主を。 「……リョウ……? どうしちまったんだ?」  女の顔の向こうから、竜憲の顔が浮かび上がった。  どこか似ている。どこが、と問われれば困るが、どこかしら似た部分がある。しかし、目を閉じて表情のない竜憲は、何も聞こえていないようだった。 「……おい、リョウ」 「……わかりました」  何が。  大輔は何を言ったわけでもない。  しかし、|美《び》|貌《ぼう》の主は、徐々に影を薄くしていった。 「リョウ! おい。貴様! 何をボケてやがんだ! しっかりしろ! 鴻がブッ倒れたぞ。聞こえてんのか! このボケ!」  目を閉じた竜憲の顔が、はっきりと見え始める。やがて、苦痛に|眉《まゆ》を寄せた竜憲は、|瞼《まぶた》を|痙《けい》|攣《れん》させて目を開いた。 「リョウ!」  何度か|瞬《まばた》きを繰り返し、ようやく、表情を取り戻した竜憲は、大輔の顔をまじまじと|見《み》|据《す》えた。 「いつまでボケてんだよ。鴻まで倒れちまったぞ。どうする? |扉《とびら》を開けてもらっていいのか?」 「……鴻……さん? ……が?」  竜憲のほうも意識を失っていたのだろう。その声は|掠《かす》れて、ひどく聞き取りづらかった。 「鴻さん! ちょっと、目を|覚《さ》ませよ! 俺は何もできないって言っただろう!」  黒髪を流して、倒れ伏す男の|頬《ほお》を、いささか乱暴に|叩《たた》く。  |霊《れい》|能《のう》|者《しゃ》と言っていい二人に倒れられたのでは、何をすればいいのか、大輔にはまるでわからないのだ。 「……あぁ……鴻さん……。気がつきましたか……。どうしちゃったんです……」  |漆《しっ》|黒《こく》の、竜憲の顔に重なっていた女より、よほど|化《ば》け|物《もの》じみた目を開いた男は、長く息を|吐《は》き出した。 「……竜憲さんは……」 「ボケてる。……けど、無事だ」 「……よかった……」  大きく息を吐いた鴻は、ゆっくりと身体を引き起こすと、竜憲を見据えた。  まだ|惚《ほう》けている竜憲は、|蝋《ろう》|燭《そく》で囲まれた中央に座ったままだ。 「……何か、ありましたか?」 「何かって……あんたがブッ倒れて……。リョウの顔が変わって……。けど、わかりました、とか言って、すぐに消えちまったけど……」 「……まったく……。私が術を|試《こころ》みるより、あなたが説得すれば、それでよかったのですね」 「はぁ?」  間の抜けた声を出した大輔に、鴻は|笑《え》みを投げた。 「彼女は、竜憲さんの中で眠るのです……。しばらくの間……」  ひどく|曖《あい》|昧《まい》な答えに、問いを投げようとした大輔は、その相手が再び気を失ったことを知って、口汚く|罵《ののし》った。     終 章  太陽が|眩《まぶ》しい。  昨日までの寒さが|嘘《うそ》のようにとれ、世の中はいっきょに春になっていた。  正直なもので、庭木もいっせいに芽を吹いている。昨日までが異常だったのだと、この風景を見ればわかった。  コットン・シャツの上にざっくりとしたセーターを着込んだだけの姿で、|大《だい》|輔《すけ》は庭に出ていた。  用心のために一晩|竜憲《りょうけん》の家に|泊《と》まったのだが、別段|怪《あや》しいことはなかった。|魔《ま》|物《もの》に打ち|据《す》えられた|鴻《おおとり》も、何事もなかったかのように、道場の後始末をしている。  説明もしてもらえずに、あの奇妙な戦いに同席させられた大輔も、いまは平常に戻っていた。 「……本当に|封《ふう》じられたのかな……」 「え?」  いつのまにか、隣に来た竜憲が、眩しそうに目を細めて、庭木を見つめていた。 「あんたと離れていても、何も起こらない。封じたのなら、|化《ば》け|物《もの》がうぞうぞ集まってくると思っていたのにな……」 「|素人《しろうと》判断ってとこじゃないのか? 全部まとめて封じたとか……」  気楽な言葉を|吐《は》く大輔に、竜憲は首をすくめた。  鴻も、魔物を|完《かん》|璧《ぺき》に封じたと言っていた。しかし、それを行ったのが大輔だと思うと、どうにも|承服《しょうふく》できない。もっとも、鴻自身が封じたと言ったほうが、より信用できなかったが。 「まぁ、いいじゃないか。何も起こらないってのを不満に思うってのは……不健全だ」  胸を張って言いきった大輔に、竜憲が苦笑をもらす。  何もわかっていないからこそ、楽天的になれるという考え方はないようだ。  しかし、あれほどまわりをうろついていた|妖《よう》|鬼《き》どもが、一匹たりとも顔を見せないというのは、気分がいい。  万が一、魔物が逃げ出したのだとしても、いまさら、竜憲には何もできないのだ。  それこそ、大輔が自分の意思で魔物を|祓《はら》えないのと同じように。 「ところで、|親《おや》|父《じ》さんはどうなんだ? 検査の結果はいつになる?」 「一週間後。親父が帰ってきたら、念のために、もう一度見てもらおうと思っているが……」 「やめとけ、やめとけ。はい、わかりましたって言って、彼女は引っ込んでいったんだから、お前の中で眠ってんだろうよ」 「それならいいけど……」  逃げ出したとすれば。逃げ出した先で新たな|犠《ぎ》|牲《せい》|者《しゃ》を捜し出したとすれば、自分にも責任の一端はある。しかし、|魔《ま》|物《もの》に|取《と》り|憑《つ》かれても自覚がなかった竜憲には、それが消えたのか、本当に自分の内で眠っているのか、確かめようはない。  |一《いち》|抹《まつ》の不安が残っているのは確かだ。  いまさらどうしようもないことだが。 「それより、お前。……俺はゼミに顔を出すほうが気が重い。……|小《お》|野《の》に会うだろ……」  |美《み》|香《か》の親友。  竜憲があんなものに取り憑かれたせいで、命を落とした娘の親友に、どんな顔をして会えばいいのだろう。 「……いまさら、どうしようもないがな……。だからだな、大輔。あんた、こんな話は二度と持ち込むなよ。こんなことになっても、責任なんか取れないんだから……」 「わかったよ……。|肝《きも》に|銘《めい》じた……」  その肝が、いつまで|腐《くさ》らずにいるかわからなかったが、一応竜憲は|頷《うなず》いてみせた。  とにかく、いまは生き残ったことを感謝するだけだ。後悔も謝罪も、生きているからこそできる。  春の空気をいっぱいに吸い込んだ竜憲は、微苦笑を浮かべた。     あとがき  ホワイト・ハートの読者の皆様。はじめまして、|新《にっ》|田《た》|一《かず》|実《み》です。  ……と、改めて|挨《あい》|拶《さつ》しても、この本を手に取っているのは、我々を知っている方ばかりかもしれないし……かと言って「そんなヤツもいたの!?」という人には自己紹介が必要だろうし。|困《こま》ったもんだ。とりあえず新田一実である。二人がかりで小説を書く|卑怯者《ひきょうもの》とか、小説界の“いくよ・くるよ”とか、色々と言われているのだが……。  このストーリーは「リョウちゃんってば、なんて|可《か》|愛《わい》いの!」「|大《だい》|輔《すけ》ってば、いつか|膝《ひざ》カックンやってやる!」という|思《おも》|惑《わく》の元、書かれた物である。  可愛いリョウちゃんはともかく、大輔は長身、がっしりとしているくせに|痩《そう》|躯《く》に見える、いい男。女にもてる。世渡りもメチャ|上手《う ま》い。こう|揃《そろ》っていると、ついつい|殴《なぐ》りたくありませんか? |何故《な ぜ》か「好きだ!」と言ってくれる読者もいるけれど、実のところ我々は苦々しく思っている。こういう男は、後ろドタマを|張《は》り|倒《たお》してやりたい! しかし現実には、こいつをしばき倒すには、思いっきりジャンプしなければならないのだ。ああ情けない。  実は、大輔というのは、かれこれ十年以上もつきあっていながら、いまだに|飽《あ》きない“殴ってやりたい”キャラクターの典型的発展バージョンなのだ。ところが、一度として成功した例はない。  この話は続きを書いていいらしいので、次回こそ、我々の積年の|恨《うら》みを込めて、大輔を不幸のドン底に落としてやる!  我々を応援してくださる方は、お楽しみに。万が一、この|妙《みょう》な男が気に入ったなどという方がいれば、せいぜい彼の反撃を期待してくれたまえ。  |竜憲《りょうけん》は……主人公の常として、トラブルの|真《ま》っ|只《ただ》|中《なか》に放り込むしかないのだが——それがヒーローの運命というものよ——そこはそれ。彼は主人公ですから、きっと不死鳥のように何度も|蘇《よみがえ》ってくれるでしょう。サコちゃんも、そのうち君のよさに気づいてくれるさ。  ……きっとね。ホントかなぁ。  そういえば、我々はもとをただせば、SF伝奇なるジャンルでデビューを果たしたのである。だが、最初のシリーズ以来、いわゆる伝奇ものとはまったく|御《ご》|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》。このストーリーを伝奇物と言うには少々気が引けるけれど、|魑魅魍魎《ちみもうりょう》が|闊《かっ》|歩《ぽ》するお話って、やっぱり好きだったのね。  日本人なら、|妖《よう》|怪《かい》だぜ。ドラゴンじゃなくて|竜《りゅう》。スフィンクスじゃなくて|狛《こま》|犬《いぬ》よ。|魔《ま》|女《じょ》というより|山《やま》|姥《んば》か。なんか違うって? いいじゃない。どうせ、その場のノリだもの。  ということで(どこが?)、ストーリーはもちろん、この妙なトリオ……|鴻《おおとり》を入れるとカルテットが、この先どういう事件に巻き込まれてしまうのか、お楽しみに。 [#地から2字上げ]新田一実 本電子文庫版は、講談社X文庫ホワイトハート版(一九九三年一月刊)を底本としました。 |魔鏡《まきょう》の|姫《ひめ》|神《がみ》 |霊感探偵倶楽部1 *電子文庫パブリ版 |新《にっ》|田《た》 |一《かず》|実《み》 著 (C) Nitta Kazumi 1993 二〇〇一年一二月一四日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社